何處難忘酒…

何處難忘酒 天涯話舊情
青雲俱不達 白髪遞相驚
二十年前别 三千里外行
此時無一盞 何以叙平生

何れの処か酒を忘れ難き、天涯旧情を話す。青雲俱に達せず。白髪逓に相驚く。二十年前に別れ、三千里外に行く。此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん。

白居易(白楽天)の詩である。
学生時代にお互いの夢を語りあった友は皆、挫折しその夢を諦めて現実を生きてきた。
まさしく「青雲俱に達せず」である。
まあ、それもいいじゃないか。
青春時代の思い出を共有した友と酒を酌み交わしたいものだけれど、数少ない友達のうちで最も親友であった男は先に逝った。
僕とても、余命は手足の指の数には及ばないだろう。
残った旧友とは、機会を作って何度でも会っておきたいと思う。

デジタル作画はハイブリッド

液晶タブレットを購入しデジタル作画を始めて半年、いろいろと勉強していくなかで、現在は写真と作画のハイブリッドがデジタル作画だと解ってきた。
写真を利用するにしても、ただ貼り付けるのではなく「画材」として活用する。
そういう技術を磨いて、いつかは独自の世界が描けるようになりたい。
「キャプテンウルトラ」は、ウルトラマンの撮影が間に合わず打ち切りとなり、次のウルトラセブンまでの繋ぎとして、円谷プロに代わって東映が任された東映初の特撮TV番組だった。
「キャプテンフューチャー」のパクリとして作られたSFものだったので、舞台は当然宇宙となる。
この作品での東映の誤算は、宇宙活劇だからロケ撮影が出来ず、ミニチュアの特撮以外も全てスタジオにセットを組む撮影となり、予算がかかってしまったということ。
この反省から、東映はのちに「仮面ライダー」を製作する時に、採石場や廃工場などでロケをおこない、費用の軽減につとめたらしい。
デジタル作画において写真を背景に使うことって、実写ドラマのロケ撮影みたいなものだと思った。
いっぽうで背景も自分で描くのは、スタジオにセットを組むようなものだな。
あらゆるシーンでロケが出来る現代劇と違い、SFやファンタジー、時代劇はスタジオや野外にセットを組まなければならないから費用がかかる。
作画も実在しない・写真に撮れない背景は描かなければならないから手間がかかるとも言えるけど、実在しないものはどう描いても「間違っている」とは言われない。
写真利用が有効なのは、まず実在していて正確に描かなければならない背景において、だな。

漫画における解剖学的デッサン力

パリのオルセー美術館にあるギュスターヴ・クールベ作「世界の起源」は、写実主義の大家が女性器を描き長い間賛否が問われてきた問題作だけれど、その前で女性芸術家が自らの陰部を露わにするパフォーマンスを見せたのは、もう4年以上前の出来事である。
彼女の意図は「リアリズムの絵画において女性が開脚していたとしても、陰部は閉じたままで穴は見えません。」 という、写実主義絵画が持つ自己規制に対する抗議だったように思うけれど、僕はここに写実的絵画の存在意義があるのだと思う。
昔から存在する写実主義絵画に対するエロチシズムの要求は、時として宗教権力の弾圧や政治権力からの干渉によってアングラと化してきたけれど、表現の自由の暴走を許容する現代においては、AV作品などによってある意味達成されている。
本来、エロスとグロテスクの境界線は主観的・情緒的な問題であり、時の権力の主観によって歪められるべきものではない。
あくまでも制作者の良心や道徳観を映すものとして創作の範疇であり、それも含めて作品は成立していると思う。
レオナルド・ダ・ビンチの啓蒙によって解剖学的なリアリズムを信奉する傾向が写実主義絵画に存在するような気がするけれど、医学書の図解ではないのだから、画家の美意識が写実性に反する表現を選択することで作品に作者の「意志」が反映し、作品を成立させている。
この点において絵画は、取捨選択の意志が一義的に存在せず、ただ光学的に対象物を写し取る写真と差別化される。
写真もまた、報道や資料としての情報である場合は光学的事実を修正すべきではないが、作品として主張する場合においては、作者の美意識をもって修正加工されるべきものだと思う。
その意味で、モザイクや黒塗りで隠す写真は、アートとして醜悪なもの以外の何物でも無い。
以上の思索における結論として、写真と絵画の境界線が無くなりつつあるデジタルアートにおいて、光学的事実をそのまま描くような写実性の価値は、偶発的事実の記録としての価値のみであろうから、修正加工が加えられていない写真にのみ存在すると断定する。

「デッサンが狂っている」とは、かつて編集者が漫画家の作画を批難する常套句だった。
美術的専門教育を経ていない多くの漫画作家はその劣等感もあって、その指摘に抗う勇気を持てなかった。
しかし、編集者もまた美術実技の習練を積んでいるわけでもなく、それは出版権力を背景にした弱者への無意味な恫喝をもっともらしく表現した詭弁に過ぎない。
人物作画は解剖学的セオリーの呪縛から解放されるべきであり、パリ画壇の巨匠たちはそれを実践してみせたのだから、市井の個人的趣味絵師である我々も、その勇気を持ちたいものだ。

岬とおるの命日

岬とおるの死を知ってから、初めての彼の命日である。
過去13回の命日を、僕は彼の死を知らずに過ごしてきた。
仕方が無いと解っていても、生きている間にもう一度、逢っておきたかったという後悔は拭えない。
今夜は彼の遺作に彩色をして、勝手にコラボレーションしてみた。
思えば、長い付き合いの中で1枚の合作も無かったな。
これが最初で最後だね。

オルタナティヴ・コミック

アメリカンコミックは厳しい締め切りの下で、ライター(原作)、ペンシラー(下書き)、インカー(ペン入れ)、レタラー(文字)、カラリスト(彩色)、エディター(編集)から構成されるチームによって制作され、作品の大筋は出版社により決定される。
これに対して、オルタナティヴ・コミックは、しばしば単独の作家により原作・作画が行われ、制作スケジュールはほとんど考慮されず、作者自らが作品を完成させたと判断した時点で出版される。
大手出版社の商業主義的な漫画製作に対して、創作性を重んじた「別の選択肢(オルタナティヴ)」として、こう呼ばれる。(Wikipedia より抜粋)

日本の漫画はここまで分業システムが確立されてはいないけれど、原作付きはよくあることで、連載をこなすためにアシスタントを雇い作業を分担して生産性を高めることも一般的だ。
出版社も漫画家もビジネスであり、商業主義的であって当然だとも言える。
ただ、漫画家のアイデアに編集者が過剰に介入することはよくあるようで、その態度にも不遜なものがあるという。
有名なところでは楳図かずお氏がこのために休筆してしまったけれど、大手出版社の編集部門の入社難易度は新聞社の記者部門に勝るとも劣らないから、それに受かる人間は偏差値信仰の持ち主であり、文学は尊敬しても漫画を軽蔑する人種が多いだろうことは容易に想像できる。
ジャーナリズムか文学の編集者になりたかったのに、「なんだ漫画雑誌の編集かよ」、と配属に落胆した人も少なくなかろうから、漫画家を見下してしまうのだな。
出版社や編集者による漫画家の創作活動による過剰な介入も、つまるところは商業主義が産む圧力であり、ビジネスだから否定できない。
ただ、漫画家も「作家」なのだから、売れる(金になる)から気を使うのではなく、売れなくても創作者の尊厳には配慮して欲しいものだ。
しかし、小説家であってもネームバリューの無い作家は粗末に扱われるようだから、出版界も芸能界のようなものなんだな。

さて、日本のオルタナティヴ・コミックと云えば、商業主義よりも作家性を優先した「ガロ」や「COM」を思い出す。
「COM」は僕が漫画を描き始めた頃には廃刊となっていて古本屋でしか手に入らなかったけれど、「ガロ」は大学生の頃でも書店の店頭に並んでいた。
漫画表現の可能性を拓き芸術性を高め、結果的に経済的にも貢献した両誌だけれど、今は「ガロ」も休刊してたぶん復活は無いだろう。
商業主義を廃したらビジネスとして行き詰まるのは当然とは言え、両誌が存在したことは日本漫画界の幸運だったと思う。

こういう思い出話も、岬とおるが生きていてくれたら、酒を酌み交わして花を咲かせることができたのだろうと思うと、やはり寂しい。

相沢先輩と35年ぶりに再会

7月28日、台風12号が接近中の静岡市に赴き、相沢先輩との再会を果たした。
おもちゃデザイナーとして、育児評論家として活躍を続けている先輩であるが、実に35年ぶりに会うことができた。
かつて僕が憧れた、先輩特有の「尖らない自己肯定力」は相変わらず健在であり、たとえ先輩が名を遂げず埋もれたままの人生であったとしても、おおらかに自分自身を肯定し伸び伸びと生きていく姿勢は、きっと変わらなかっただろう。
むしろ、そのおおらかな自己肯定力が才能を開花させ、積み木のデザインで国際的な賞を受賞することができたのかも知れない。
僕のように他人から認められなければ自分自身を肯定できない者は、承認欲求や自己顕示欲に振り回されて、結局は自分自身を成長させ得ないのだ。

先輩と再会して、その場に岬とおるが居ない寂しさを痛感した。
先輩は岬とおるのお兄さんと同級生だったので、お兄さんについての思い出話をうかがった。
岬とおるのお兄さんは我らが母校の美術部始まって以来の画才を持っていて、誰しもが芸大合格を確信していたようだ。
しかし、お兄さんは芸大に4回落ちてしまい、僕や岬とおるが大学に入る年に芸大を諦めて私立の美大に進んだ。
お兄さんの画業は完成されていたために、芸大では教えることが無いと判断されたのだろう、と相沢先輩は言っていた。
そんなお兄さんのお話を聞いていて、国立の医学部に現役合格した者と肩を並べる学力があった岬とおるが、浪人もせず僕と同じ大学に甘んじた事情を想像してしまった。
画家を目指し芸大に何回も挑戦し浪人を続けるお兄さんの存在が、岬とおるに影を落としていたんだな、と思ったのだ。
芸大を三浪し画家を目指している夢多き兄の存在は、二人兄弟の弟として、両親を安心させたい、経済的な負担をかけられない、将来は両親の面倒をみなければならない、などという責任感を岬とおるに抱かせたのかも知れないと、その時僕は思った。
真相は違うのかも知れないけれど、もっと格上の大学に行ける学力がありながら浪人せずに僕と同じ大学に甘んじたことや、卒業後も冒険はせず(恐らくは不本意な)企業のサラリーマンになったことなども、僕は岬とおるのお兄さんについて聞かされて、そんなふうに思ってしまった。
岬とおるは大学卒業後に入社した会社を結局辞めて、その後転職を繰り返すことになったので、僕は彼が新卒で入りたい会社に入ったとは思えなかったのだ。

2004年に岬とおるはこの世を去ったけれど、彼のお兄さんもまた2013年に世を去っている。
高校の美術教師になったお兄さんは、二度の結婚をし子供を二人得た。
美術教師として多くの教え子を芸大に送り込み、画家としても評価を得ていたようだ。
いっぽうで、それに負けない才能があったと思われる岬とおるは、その才能を世に出すこともなく、また家庭を持つことも無く世を去った。
芸術的才能に溢れた兄弟は今、静岡市内愛宕山の麓の霊園に眠っている。

黄色い涙

6月10日は永島慎二先生の命日である。
先生の代表作は一般に「漫画家残酷物語」だとされているようだけれど、僕にとっては「若者たち」だ。
1974年にこの作品がNHK名古屋でドラマ化される際に、1966年にフジテレビが放送した人気ドラマとタイトルがかぶるので、脚本家の市川森一さんが永島先生の一連のシリーズ名の「黄色い涙」というタイトルを選んだ。
僕はこれをリアルに観ていたけれど、小椋佳さんが歌う主題歌(佐藤春夫の「海辺の恋」)もよかった。
僕はこの歌が鼻歌で出てしまうくらいに覚え親しんでいた。
「海辺の恋」という詩が佐藤春夫と谷崎潤一郎夫人との許されざる恋の歌だと知ったのは、ずっとあとのことだ。
永島慎二先生の画風はとても魅力的で、僕の漫画仲間にも大きな影響を与えた。
岬とおるにもその香りがするし、素直な性質の篠塚としおの作画には永島慎二タッチが濃厚に出ている。
僕だって惹かれたけれど、敢えてその誘惑に背を向けていた。
それが、僕の画風が定まらず表現力を伸ばせなかった所以であったかも知れない。
永島先生が亡くなった時、僕は岬とおるや篠塚としおと語り合いたかったけれど、遠く離れて暮らしていて、それは果たせなかった。
今になって知ったのだけれど、岬とおるは永島先生よりも9ヶ月早く、この世を去っていたんだな。
僕たちを含め、多くの「若者たち」が迷走の挙句に歳をとり、還暦を迎えたんだと思うと、その中に岬とおるが居ないというのは、とてもとても寂しい。

岬とおる関連の作画

岬とおるが既に亡くなっていたという事実は、僕のささやかなお絵描き人生における最大事件だった。
外国に去っていったというのなら、現代はなんらかの通信手段でコンタクトできる。
しかし、黄泉に逝ってしまったのでは、もうどうしようもない。

彼の死を知ってから、僕は3枚の作画をした。

彼の死を確認してまず描いたもの。

僕にとっての彼の墓標を描く結果となっている。

その後、哀悼の念が強まり描いたものがこれ。

そして、岬とおるの一番の理解者だった「チロンヌップ」誌編集長、柴田氏のために描いたもの。

どれ一つとして岬とおるの作画には及ばない。
僕は永久に追いつけない才能と出会い、そして一方的に去られてしまったのだな。

岬とおるの墓に再び

梅雨入りし、長期予報でも雨模様の中で唯一の晴れの休日だった昨日、岬とおるの墓に二度目の墓参。
最初の墓参から約一か月ぶりだったけれど、家族が死に絶えた彼の墓は思ったとおり汚れていた。
軽く清掃をして花を供え香華を手向ける。
そんなことをしても彼は戻りはしないけれど、僕の人生において重要な人だったと改めて思い知る。
僕はお絵描きを再開して毎日描いてはいるけれど、一生かかっても彼の足元にも及ぶまい。