「信仰」とは人類の慢性疾患

「神」は存在するのか。
「神」が不在だとしても、それを証明することは難しい。しかし、神の効力が存在しないことは学術の進歩によって明らかとなり、教育によって広まっている。本来なら人類史の中で、「神」とは廃れてもおかしくない概念なのだ。しかしそれをバックボーンにして社会を構成してきた世界では、それ無しでは成立しない。「神をも畏れぬ」という切り札で支配し支配されて安寧を手に入れてきた以上、「神は畏るるに足りず」という事実は認めがたいのだ。そのため、キリスト教圏では「神」は形而上学における癌であり、思想史はその葛藤の歴史でもある。イスラム圏では、教育そのものを大衆から遠ざけているように見受けられる。
「神」を畏れずとも「神の主張」のみを信じて、多様性を許容し良識が共有できる「信仰」ならば、「信仰」とは人類にとって有益なものだ。しかし現実は、「神」を畏れるが故に聖書・経典・戒律に従う。守護・救済・利益を求めて「神」を信じる。つまり「信仰」とは「人間の欲望」との「取引」なのだ。「取引」である以上「利益」は「損失」とバランスされ、信者に「利益」を約束し「損失」を異教徒に負わせるのが「信仰」の本質である。だとすれば、「信仰」とは人類の慢性疾患のようなものだな。
「神の不在」の証明よりも「神は誰も裁かず罰せず、救いもしない絶対的公平な存在」であり、利益を求める欲望にとっては「あっても無くても同じ」であるという事実を、人類は知らなければならない。