ひきつづき偽善についての考察

前回の「宗教は善意の詐欺か」で採り上げた、キリスト教福音派と論戦を交えた人の感想に、「大抵の相手はあまりにも善人で(進化論攻撃以外では)ぼくよりもずっと高潔な人で、矛先が鈍る」とあった。僕の関心は、キリスト教福音派の人たちが科学から目を逸らしているという事実よりも、論戦の相手から「善人」「高潔な人」という評価を受ている点に注がれる。そこで、何故そういう評価になるのかを質問してみた。
その回答を下記に転載する。

ひとつは、彼らはあまり過去に興味がないということです。
常に「既に許し、許された状態」をキープしているので、過去に起因する後悔、恨み、憎しみなどをあまり考えず、未来について考えるという印象を持ちました。未来も「自分と、相手のために祈る」ことが基本です。ノンクリの私にはできない技と思います。
ふたつめは、彼らは常に嘘をついているということです。
実際には後悔も恨みも、激しい敵意も十分に持っていることが言葉の端にちらっと覗かせることがあります。ただ、それを自分自身でも気づいていないというか、自分にも隠していて、「わが心に一片の曇りなし」と人に話すことに慣れていると感じました。

過去に起因する後悔や恨み、憎しみに囚われず、未来について考える姿勢、というのは素敵だ。キリスト教が人を惹きつける部分だな。しかし、その姿勢が「偽善」であることが見抜かれている。「偽善」を自覚できないほどに訓練されている姿を見抜かれているのだ。
今回の例でも明らかなように、「善人」に見えるのは「偽善」なのだ。ここで注意しなければならないのは、「偽善」を偽りだとして短絡的に不正と決めつけてしまうことだろう。「偽善」は多くの場合、他者の信頼を得るために必要な自己演出であり、時として「礼儀」であり、また時として他者を傷付けまいとする「いたわり」であったりもする。「嘘も方便」と同様に「偽善」を使い分けることは、人間社会の交流において必要かつ許される行為だと僕は考える。
問題なのは、無自覚な「偽善」なのだ。仮面を仮面と気づかず自分の素顔だと思い込んでいる人間を、僕は到底信用できない。恐怖すら感じる。付け加えるならば、常時「偽善」である人もだ。仮面を片時も外さず素顔を見せない人。こんな人はほんとうに恐ろしい。
人は成長する過程で疑うことを覚える。疑うことで事象を自分なりに吟味し、自我を育てていくものだろう。この自我が、現在の自分の態度が「偽善」であるか「本心」であるのかを、自我は常に見張っているものだ。だから「偽善」の継続は本人にストレスを与える。訓練によって自我をコントロールするような者、習慣によって自我が減衰しているような者の「良心」を、僕は信じることができない。