デジタル作画の楽しみ方

これは僕が描いたものだけれど、デジタル作画環境を手に入れてからの僕の創作は、自分で描いたものをデータとして扱い、それをコラージュして情景を作り上げる、という手法に変わっている。したがって、この絵に登場しているものの中には、別の情景に登場しているものもある。
伝統的な美術指向からは邪道とされるだろう。アナログ作画では基本的に1枚の画材の上に描くのが当然だから。それは音楽で例えるなら、演奏会などのライブ重視で、スタジオで録音し良いところを繋ぎ編集することを「卑怯」に感じる演奏家の心理だろう。たしかに演奏家の技量を推し量るのであれば、演奏会こそ相応しい。スタジオ録音では、どのような誤魔化し(編集)があるのか知れないから。そして音楽では「生の音を聴く」という価値もあるだろう。音楽においては、録音と演奏会とでは「聴こえる音」に大きな開きがある。
これを絵画に置き換えて考えてみる。原画を実際に見る場合と、複製されたり印刷されたものを見る場合とでは、どれほどの差があるだろう。複製される精度さえ一定水準にあるのであれば、原画を見ることとの差は無い、と僕は思っている。原画の美術的価値は、品質を保った印刷技術によって大量に複製できる。しかしアナログ作画の原画には、美術的価値とは別に希少価値が存在し、これは原画という物質そのものに固有するものなので、複製することは出来ない。伝統的な絵画の経済的価値は、この希少価値を基本にして権威がそれに加算されている。
デジタル作画には、そもそも物質としての原画は存在しない。最初から複製(厳密には作者の意図した解像度と画像サイズのもの)を前提としているわけだから、原画の希少価値に根差す美術の伝統的な価値観から解放されている、と考えて良い。
再び音楽に例えるのなら、スタジオ録音だけの世界だ。1曲を最初から最後まで演奏しようが、パート毎に演奏して繋ごうが、それは自由だ。どのように作ろうと、聞こえてくる「音」だけが重要となる。それがデジタル作画の世界だ。
作画アプリケーションの機能による支援も、おおいに活用していい。極論するなら、絵が描けなくても作画できる。技巧ではなく、表現者の意向だけが価値を産むと言っても、もはや過言ではないくらいに作画アプリケーションは進化している。僕は自分で描くほうがアプリケーションを操作するより楽なので、デジタル環境の活用が中途半端なのかも知れない。
それでも、デジタル環境で情景を作る作業は楽しい。表現である以上は、僕なりの「意味」を込めて情景を作っている。情景を解釈しようとしてくれる人が居れば嬉しいし、僕の込めた意味より奥深い解釈を与えてくれる場合もある。こうなると、見る人との共同作業だなと感じる。画像による表現には、「無音の音」のような言葉に出来ないニュアンスを込めることができる。言葉で伝えられることを伝えたい時には、僕はこのまわりくどい文体で一生懸命に文章を書くだろう。