一寸の馬鹿にも五分の魂

友人が「世の中は20%の賢者と20%の愚者、そして60%の同調者で成り立っている」と言った。この比率を検証してみたいと資料を探してみたところ、下図のようなものがあった。

「賢者」が敵意を持って他者を攻撃した場合、正当な理由があればそれを「いじめ」とは認識せず、不当な理由による「いじめ」であればそれを隠すだろう。「愚者」はそもそも自らを省みる思考を持たないから、「他人をいじめたことなし」のはずだ。このように考えるならば、「他人をいじめたことあり」とアンケートに答える人間とは、「社会に『いじめ』が蔓延しているのだから、一度ぐらいはそれに加担したはずだろう」という反省を伴った憶測と、自らを「特別な人間ではない」とする謙虚さを持った者だと推定できる。これが友人の言う「同調者」であるとするならば、60.8%という比率は彼の主張する構成比率の近似値であり、興味深い結果である。このことから「同調者」とは、具体的な記憶に基づくのではなく、社会に用意されている共通認識に基づいて「自分も同様の体験をした/行動したい」と考えて疑わない人たちと定義できる。

次に「賢者」と「愚者」について、別の考え方を試みる。
日本人の特質として「みんなと同じでなければならない」(同調圧力)と「みんなに好かれたい/嫌われたくない」(承認欲求/失愛恐怖)というものがあると、ある心理学サイトに記述されていた。僕は両方とも凄く強く持っていて、子供の頃から「みんなと同じじゃない自分」(利き腕とか好みとか)に悩み、だからこそ余計に「好かれたい/嫌われたくない」と意図的な行動をして傷口を広げてきた。このような失敗をする者が「愚者」ではないだろうか。「賢者」ならば、承認欲求や失愛恐怖を意図的に制御して自らの好感度を高く保ち、同調圧力には表面上逆らわずにこれを巧みに誘導し、自らの主張を多数派とするだろう。そう考えると「賢者」とは、羨ましくもいやらしい存在だな。
「愚者」の中には最初からなんの思考も思惑も無く行動する者が含まれるが、多くの者は同調圧力や承認欲求/失愛恐怖の失敗に懲りて、「賢者」の誘導に盲目的に従うことで自らを守る「同調者」となる。無思慮でも同調者でもない残された「愚者」は、「賢者」の誘導に抗い同調圧力や承認欲求/失愛恐怖に常に挑戦して敗れ傷ついて、それでも敗北を受け入れられない「馬鹿」なのだ。