僕の作品はなぜ面白くないのか

僕がなぜ、いくつかのテーマについて多数派の人たちと価値観を共有し難いのかについては、以前にこの投稿で考察してみた。左利きに対する差別があった時代に左利きとして産まれたから、僕は「臍曲がり」なのである、という結論だった。しかし同世代の左利きが皆「臍曲がり」でもないだろうから、これだけではいささか根拠として弱い。
HSPという気質の分類概念と出会って、僕の肉体的特徴に対する周囲の扱いとは別に、僕は生まれつき少数派かも知れないという根拠を得た。自意識の成長とともに、僕は他人には理解してもらえない「いらだち」や「心の傷」を抱えてきたけれど、このHSPという概念で説明できる。だからと言って僕の周囲に変化が生まれることは無いけれど、少なくとも自己否定や自己嫌悪が少し和らいだことは間違いない。
本稿の主題である「僕の作品はなぜ面白くないのか」について、僕はその原因を僕自身の「才能」ではなく、僕に固有する「気質」や「性格」に牽強付会することを試みようとしている。この試みはたぶん破綻するだろうと予期しながらも、思索を整理しながら結論を得たいがために、僕はこの文章を書き進めていく。
僕はこの投稿である先輩について書いている。この先輩は漫画家を目指していたけれど、その作品はどれも面白くなかった。感想を求められて正直に答えると「へぇ、僕には面白いんだけどねぇ…」と穏やかに微笑むのだけれど、僕はこちらの感性や理解力の不足を責められているような錯覚を覚えた。この強靭な自己肯定力に僕は痺れ、僕も漫画家になろうと決めた。
決めたからと言って漫画家になれるわけでもなく、たぶんなれる可能性はかなり低いと最初から解ってはいたけれど、正確に言うならば「漫画家を目指す自分を続けよう」と決意したのだ。それがただ「漫画家を目指す先輩に憧れて漫画家を目指す若者になろう」としただけだったのだと、還暦を過ぎた今なら自分を裁くことができる。何故ならば、青春時代のすべての時間をそれに費やしていたわりに、今考えると本気で漫画家になる気があったのかと、自分自身が疑わしく思われるからだ。なれる機会はあった。でもすぐに売れない漫画家として挫折し、それは漫画家を目指していた自分よりも、ずっと深刻でみじめな自分となるだろう。そういう予測があったから、僕はいつまでも「目指す立場」に留まるモラトリアムでいたかったのだと、62歳の僕は自分自身の二十代の正体を見破る。なんと、情けない奴だ。
ほんとうに僕が目指していたのは、強烈な自己肯定力を持った人間になることだったのだ。それに気づかせてくれた先輩がたまたま「漫画家を目指す若者」だったので、僕もそれを目指し続けていたのだ。中学生の頃から過剰な自意識を持て余し、巨大化する自尊心と釣り合わない凡庸な学力と体力と才能しか持ち合わせていない僕の身の置き所として、「漫画家を目指す」という特殊な進路の選択はとても好都合だったのだ。「夢を追う」自分の姿に酔い痴れて現実から逃避する狡猾さを、あの頃の僕自身から感じてしまう。
その程度であったから、僕は求めていた自己肯定力を培うことが出来なかった。それなりに一応の努力もしたから漫画を描く技術は向上し、自尊心が満たされる経験も無かったわけでも無いけれど、とても自己肯定できるところまでは到達できなかった。それでも自意識と自尊心の置き所として僕は「漫画家を目指す若者」であり続け、貴重な青春を空費してしまった。
漫画家を目指していた頃も、2001年からWEBサイトを開設して掲載した紙芝居でも、最近になって再び作り始めたアニメGIFでも、僕は自分で面白いと思う作品を作ったことがない。作品を作る作業は楽しく面白い。だから創作意欲が湧き、また作る。まるで性欲が湧いて性行為をするように。しかし性行為(創作活動)の結果産まれてきた子供(作品)は、それほど可愛くはない。他人から「可愛いお子さんですね」と言われれば嬉しいし、けなされたら腹も立つのに。
漫画家を目指していた頃から、作業としての創作活動に面白さを求め凝るようになった。画風も精緻なものになり、作画に時間もかかるようになると、最初に考えていたストーリーに飽きてくる。だからもう一度練り直す。完成が遅れるし、応募期限に間に合わず未完で終わる場合が増える。WEBで公開していたFLASH作品やアニメGIF作品でも、仕事をしながら余暇に作るので完成までに時間がかかり、完成する前に最初に思い描いていたオチに飽きてしまう。もっともあるべき姿の結末が変更され、説明されなければ隠された意味が理解できないような難解なものに変容してしまう。そういうことがほんとうに多い。しかしそれが、僕自身が製作作業に飽きずに作品を完成させるためには、どうしても必要なことだった。
それは僕に、漫画を使って表現したい主題が欠如しているからなのだ。僕が他者に何かを伝えたい時には、たぶん文章が一番適している。では、何故漫画を描くのかというと、青春時代を費やして培った作画技術を他者に見せたい欲求と、フキダシを使ってキャラクターに話させるという表現方法が、作っていて面白いからだ。
ここまで書いてきて整理できた。僕の作品が面白くないのは、当たり前だったのだ。
他者から「面白くない」と言われたら、「そう?作ってて面白かったけどね」と言える。かの先輩の「(自作を)僕には面白い」と言える事とはまったく違うけれど、どちらも自己満足へのアプローチには違いない。これを自己肯定に昇華するにはどうしたものか。まず「面白くない」という感想は、相手の洞察力や感性の不足としよう。今までWEBで発表してきた作品だって面白がる人がいたのだから、面白がるのは面白がる才能のある人に任せておけば良いのだ。それよりも、僕は作るのが面白くて続けていける創作手段を持っている。これは素敵なことじゃないか。
作るのが面白ければ、それでいいのだ。面白い物を作ると約束しているわけじゃないのだから、詐欺にはなるまい。「面白い作品が作れない」と自己嫌悪するほど、自惚れてはいけないのだ。作り続けていれば、ひょっとして自分でも「面白い」という作品が作れるかも知れない。そういう事故の可能性は常に存在するのだ。僕の作品が面白くないのはそういう仕様であり、作るのが面白いからそれでいいのだ。