僕は生まれ変わるかも知れない

僕たちの人格や精神は脳の活動結果であり、肉体が死ねば、それとともに人格も精神も消滅することになっている。これが今のところ多数派の支持する「常識」であり、これに真っ向から挑む証拠を持ち合わせていない以上、ことさらこの「常識」に逆らう素振りを見せてリスクを負う必要は無い。しかし僕は密かに、死後存続説を根拠も無く肯定的に捉えている。人間は肉体に宿ることを繰り返す、不滅の意識情報系存在なのだ。

イアン・スティーヴンソンは20世紀最大の「生まれ変わり」現象の研究者である。「生まれ変わり」現象とは、前世の記憶を持つという現象のことである。この「生まれ変わり」現象は日本でも知的好奇心の対象となっていて、江戸時代末期の国学者平田篤胤が『勝五郎再生記聞』を著している。イアン・スティーブンソンはスピリチュアリズムに対しては距離を置く慎重な超心理学者(精神科教授)だったから、最初から死後存続に関して肯定的であったとは思えない。彼はインドで収集したいくつかの事例を信頼性の高いものであると判断し、前世の記憶が研究テーマたり得ることを確信し、世界中の「生まれ変わり」事例を驚異的な努力・忍耐力をもって収集した。ある程度の年齢に達してからの事例については、成長過程で得た情報を無意識に物語として再構築している可能性があるとして重視せず、主に2歳から8歳を研究対象とする慎重さを持っていた。
彼が著した『前世を記憶する子供たち』では、子どもの12の典型例を考察している。スティーヴンソンの立場は科学者としての客観性を保ち方法論も学術的であったので、オカルト主義には懐疑的な科学者たちからも好意的に受け止められた。

かつて田中角栄の金権体質をレポートして彼が失脚する端緒を開いたジャーナリストの立花隆氏は、あくなき知の探究心を「人の死」にも向け、臨死体験について調査しているが、イアン・スティーブンソンの研究については、そのフィールドワークが輪廻転生思想の根付いた地域に偏っているとして否定的であった。しかしスティーブンソンが著書で採り上げている事例にはキリスト教圏のものもあり、立花氏のこの指摘は当たっていないと思う。それよりも僕が思うに、臨死体験とは心停止の状態から蘇生した人の体験であり、蘇生したということは脳が壊滅していないわけだから、臨死体験の記憶は全て脳の活動として説明できてしまう。「臨死」とはどこまでいっても「死の瀬戸際」なのであり「死後」ではない。臨死体験よりも輪廻転生のほうが、僕の関心事である死後存続については有効なアプローチだろう。

僕の死後、僕の意識情報は宇宙に拡散し、別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかも知れない。