冬ぞ寂しさ勝りける

冬の寒い日、特に雨が降る日は寂寥感を強く感じてしまうものだな。

山里は 冬ぞさびしさ まさりける
人めも草も かれぬと思へば

語調が好きで覚えていた、古今和歌集にある源宗于朝臣の和歌がぴったりな感じ。
源宗于は三十六歌仙のひとりだけれど、この和歌は同じ三十六歌仙である藤原興風の和歌

秋くれば 虫とともにぞ なかれぬる
人も草葉も かれぬと思へば

を本歌としているという説もあれば、どちらが先に詠まれたのかわからない、という説もある。
源宗于の和歌のほうが僕は好きだし、平安時代をとおして源宗于の和歌のほうがヒット作だったことは間違いない。
ちなみに藤原興風には

誰をかも 知る人にせむ 高砂の
松も昔の 友ならなくに

というヒット作があるけれど、還暦を過ぎて既に逝った友もあり、今さら新しい友が出来る機会も無くなった現在の自分に重ね合わせてしまうので、ちょっと敬遠したい作品。

この藤原興風も源宗于も、そして古今和歌集の撰者のひとりで源宗于とも親交のあった紀貫之も、官僚としてはさえない地方官だった。
源宗于は先代天皇の孫で臣籍降下して源姓を賜った人だから、興風や貫之よりは貴種ではあるけれど、なかなか良い役職に就けない。
叔父にあたる宇多天皇に和歌を奉って不遇を訴えてみたけれど、表現が遠まわしで技巧に過ぎたためか、宇多天皇は側近に「どういう意味なんだろうね。何が言いたいんだろう」と漏らしたとか。
晩年にようやく中央官僚(右京大夫)の地位に就けたのは、それでも元皇族だったおかげかな。
菅原道真を重用して『寛平の治』という治世を布いた宇多天皇には人材抜擢の能力があったと思うから、登用されなかったのは能力的な面もあったのかも知れないけれど、宇多天皇は同母兄だった是忠親王を差し置いて皇位に就いており、もしも兄に対して申し訳ないという気持ちがあったのなら、兄の子である宗于をもう少し優遇したのではあるまいか。
宇多天皇の先々代の陽成天皇を、近侍していた側近殺害に関与していたという疑いで退位させたのが、時の朝廷の実力者であり日本最初の「関白」藤原基経だけれど、その基経が次代の天皇に選らんだのが光孝天皇であり、この人が宇多天皇の父であり源宗于の祖父である。
光孝天皇は自分の次の代で皇位を陽成天皇の同母弟に返したいと考えていたみたいだけれど、基経がそれを許さず、光孝天皇の子でしかも第七皇子を皇位に就け、これが宇多天皇である。
宇多天皇治世の初期には阿衡事件など基経の我意が罷り通っていたから、源宗于の出世が遅れた原因として天皇が藤原氏に忖度していたのかと考えてみたけれど、基経没後、子の藤原時平が若いことに付け込んで菅原道真を重用するようになっても、源宗于が高官に就いた記録は無い。
宇多天皇の次の醍醐天皇の代になってから、源宗于は兵部大輔とか右馬頭という高位の武官に叙任されているけれど、その後は相模守とか信濃権守という地方官に甘んじている。
やっぱり、処世術も行政手腕もあまり無かったのかも。
源宗于の祖父、光孝天皇は

君がため 春の野に出でて 若菜つむ
わが衣手に 雪はふりつつ

という和歌が有名だけど、おっとりした人柄が偲ばれる。
若くして藤原基経により譲位させられた陽成天皇で有名な和歌は

つくばねの 峰よりおつる みなの川
恋ぞつもりて 淵となりぬる

と激しい。
平安当時、筑波峰は野蛮で素朴な東国において男女が自由に性行為を楽しむ異郷と考えられており、「みなの川」は「男女の川」と書く、エキゾチックでエロティックな世界だった。
17歳で側近を撲殺した疑いをかけられ、皇位を失うほどの激情家らしい和歌ではある。

冬の寒さから、とりとめの無い閑話であった。