存在しない映画のスチル写真

かつてここにも書いた話だけれど、大学に入った翌年の1977年の冬、僕は東映大泉撮影所で開催されたぴあ展に行った。この頃には漫画家を目指して入った大学の漫画研究会にも顔を出さなくなり、上智や日大などの学生たちに混じって映画の自主製作サークルに参加していたのだけれど、このぴあ展の企画の中に「自主映画展」があるというので、僕たちはそれを見るために行ったのだった。
ぴあ展はまさにサブカルチャーの坩堝だった。既に大学の漫研において、僕は自分よりもはるかにレベルの高い漫画家予備軍と出会い、少なからず自信を失いかけていたけれど、ぴあ展で出会う若者たちのパワーに僕は臆した。このままでは僕は何者にもなれない。そう予感した。
映画作りサークルでは、メンバーそれぞれの理想ばかりが高く自分の価値観に固執してたので、脚本以前に方向性すら定まらなかった。ホームビデオで撮影するような時代よりずっと前の、8ミリ映画を作る時代だったから、事前にきちんと決めてからでなければ動き出せない。
毎晩のように酒盛りをして何を作りたいのか熱く語り合う、それだけで僕は充分に満足していた。熱気だけでは何も出来ないのに、熱気に酔い、アルコールに酔って充実してしまう心理は、まるで幕末勤皇の草莽志士のようだ。若い頃の僕は、ほんとうに駄目な男だったな。
メンバーに誘われて早朝から池袋の文芸坐地下に出かけ、そこのトイレで偶然、大瀧詠一さんと連れションをしたのもこの頃だった。僕は大瀧詠一さんとは気づかなかったけれど、後から僕の隣で用を足していたのがそうだと言われて驚いた。当時、ナイアガラレーベルは知る人ぞ知るという存在だったけれど、ライブに行ったことのない僕には、大瀧詠一さんを見分ける術は無かった。それでも、当時の仲間内では自慢話として通用したものだ。
進展しない映画作りの中で、僕はスチル写真を撮ってパンフレットを作るプランを出した。僕には漫画同人誌の作家として、印刷物という媒体には格別の思いがあった。実際に映画を作らなくてもいいじゃない。実在しない映画のパンフレットというパロディ作品のアイデアを、僕は本気で面白いと提案しメンバーを興醒めさせた。僕は今でも、面白いアイデアだったと思っている。
その後、メンバーの中にいた上野学園音楽短大の女子学生のアパートに、僕が何日も泊っていることが他のメンバーにバレる事件があって、既に浮きつつあった僕はサークルでの居場所を完全に失った。この音大生との付き合いも長くは続かず、それからも僕の青春は迷走を続けるのであった。