平等と自由について

下図のような政治マトリクスを、ボウリング愛好家らしく僕の身勝手な牽強付会で考えてみる。
ボウリングにもハンディキャップ制度があるけれど、これは決定された算出基準を網羅的に施すもので、管理運営は中央集権的な「権力」がおこない、個々の例外は認めないから「パターナル」なものだ。
そして、ハンディキャップ制度は参加者全員の利益を公平に再分配する名目で設けられ、この制度の不備によるリスクは制度に参加する全員に及ぶので、ここでは強引に「リスクの社会化」という範疇に入れる。
相手にハンディキャップを与えても余裕で勝てるのはかなりの上級者であり、多くのミドルクラスはギリギリでハンディキャップを得られないか、あってもあるかないかの僅かなハンディキャップとなるので、競技者のマインドとしてはむしろスクラッチ(得点そのもの)で競う自由競争を望む。
自由競争を望むのは「リベラル」であり、権力によって人工的に平等を作ろうとする「パターナル」とは対極にある。
そしてスクラッチ制は当然「リスクの個人化」だろう。
このように考えると、「実力の違う者同士が楽しくボウリングで競おう」というハンデキャップ制度は政治的には「保守」ということになり、「ボウリングは競技なのだから、得点に細工せず競うことが平等なのだ」というスクラッチ制のほうが「リベラル」に属すことになる。
ここでは「ボウリングがスポーツ競技」という発想こそ陳腐化した保守的思想だ、という指摘は措いておく。
僕の論点は「自由は格差を野放しにし、格差を是正しようと制度的に平等を作ると自由を蝕む」という視点を、ボウリングのハンディキャップ制度に仮託してみたということなのだ。