我が永遠のマリア・ヴァレフスカ

癇癪持ちで身勝手な性格ゆえに僕は友達が少なく、恋人が出来ても長続きしなかった。
愛想を尽かされて離れていってしまう。
反省はするものの、取り繕ったメッキなど親しくなれば剥がれてしまい、醜い地金が露わとなる。
30歳の時にボウリングを通じて知り合った8歳年下の女性は、そんな僕の醜い性格を知ってもそれを受け入れてくれ、寄り添ってくれた。
運命を感じた僕は求婚し、彼女は僕の妻となった。
結婚後、家業の破産と借金、転職や転勤で住まいも転々とし、ふたりの子どもを抱えた貧しい生活の中でも、彼女は明るく逞しく僕を支え続けてくれた。
志ばかりで成果の乏しい人生となったけれど、この妻を得たことだけでも十分に恵まれたと言える。
僕の生涯において妻が唯一無二の存在であることは間違い無いのだが、実はもうひとりの女性が僕の心の奥隅に今でもひっそりと棲んでいる。
彼女は僕の夢の中にしか現れない。
夢の詳細な内容は覚えていないけれど、シチュエーションは毎回異なっていたと思う。
共通しているは、夢の中で僕は彼女を追い求めても巡り会えず、「さっきまで彼女はそこに居たんだけど」というシーンで目覚める、というところだ。
その夢は高校2年の頃からもう45年以上続いていて、恋人がいた時期も、そして結婚してからも、還暦を過ぎた今でも見る。
その夢に出てくる美少女と出会ったのは、高校1年の時だった。
入学後最初の席順は出席番号順だったので、同姓だった彼女は僕の前の席となった。
彼女は休み時間になると後ろを振り向いて、僕に話しかけてきた。
高校進学直前に三重県から引っ越してきたという彼女は、富士山が美しいとしきりに言っていた。
静岡市に生まれ育った僕にとっては見慣れた風景に過ぎなかったけれど、富士山が見えない地域に住んでみて、今では彼女の感慨が理解できる。
その頃のことで今でも覚えているのは、いつものように振り向いて僕と話していた彼女が、突然「ちょっと」と言って目を下に向けたのでその目の先を追うと、僕の机の上に置かれていた彼女の手を、僕が握っていたことだ。
無意識に女性の手を握ったのは、後にも先にも生涯でこの1回きりだと断言できる。
彼女は演劇部に所属し、舞台でマリア・ヴァレフスカを演じた。
ワーテルローの戦いに敗れセントヘレナ島に流されるナポレオンと最期の別れをするために、自分の産んだナポレオンの子を連れて逢いに来たエピソードを舞台化したものだった。
ナポレオンは性欲と政略で数多くの女性と関係を持った「英雄」だけれど、ナポレオンを愛した女性はマリア・ヴァレフスカひとりだったと思う。
そんなマリア・ヴァレフスカを演じた彼女は、とても気品に溢れ見事なものだった。
僕は彼女の誕生日に作画した作品を贈った。
彼女からは、僕の誕生日にシャープペンを貰った。
そのシャープペンは大学受験まで大切に使っていたけれど、大学生の時、電車にバッグを置き忘れて失われた。
女性とは鋭敏なものだから、高校1年の時には既に僕の慕情を彼女は感じていただろう。
しかし、男子生徒の多くが噂する美少女であり、僕の手の届く相手とも思われなかったから、高校2年以降クラスが別々となって、僕はこの慕情を封印した。
この頃から、僕は彼女の夢を見るようになった。
学校で彼女の姿を見ることができた高校時代よりも、高校卒業後のほうが彼女の夢を見ることが増えた。
大学生時代、恋人が出来ても彼女の夢を見た。
[夢で逢う」のではなく、常に「すれ違い、巡り逢えない夢」なのだ。
そして還暦を過ぎた現在でも、しばしばこの夢を見る。

 

【追記】
この記事を投稿した翌々日に、またこの夢を見た。
既に夢の記憶は薄らいでよく覚えていないけれど、まだ覚えていることをここに書いておく。

夢の中で、僕はバスに乗っていた。
走行中の乗降口のドアを半開きにして、幼稚園児ぐらいの女の子が半身を外に出していた。
「危ないねぇ」などと乗客たちがざわついているけれど、誰も動こうとしない。
僕は女の子の傍に近寄り「危ないよ」と女の子をドアから遠ざけ、手でドアを閉めた。
まるで襖を閉めるように手で動かせたことに、僕は意外な気持ちになった。
二度と女の子が危ない行動をとらないように、僕は乗降口のドアの前に立っていた。
次の停留所で多くの人が降りることになり、ドアの近くにいた僕は邪魔になるのでドアの脇のポールの間に移動した。
夥しい人数がゾロゾロとバスを降りていく。
降りた人々の中から「降りないの?」と声をかけられた。
声のした方を見ると、バスから降りた群衆の中に「彼女」が居た。
僕は喜び勇んでバスを降り、向こうから声をかけられたことに勇気を得て「彼女」の腕をとった。

覚えているのはここまで。
たぶん、この直後に目が覚めたと思う。
自分の深層心理の奥に潜む空想の世界は、自分自身でもコントロールが難しい。
今回この記事をネットに晒したことで、僕の深層心理に変化が生まれたのかも知れない。
誰も読まないブログではあるけれど、誰でも読むことができるインターネットに公開したことは、誰にも言えなかった秘密を「告白」したことに似ているから、僕自身が気づいていなかった胸のつかえに少し変化があったのだろう。

 

【旧友が寄せてくれた感想への返信】
現実世界で起きた事柄については、良い事ばかりではないけれど、それは現実であり体験を共有した人も居るので説明が可能なぶん、僕の中では気持ちに決着がついているものなのですが、夢の中の出来事は、基が実在の人物であってもいつの間にか架空の人物となっていて、しかも夢の中の体験は目覚めると曖昧な記憶しかなく、せつない気持ちだけが残っていたりします。
夢なので他人と共有できる体験ではないぶん、誰かに話して自分の気持ちを軽くすることも出来ず、そもそも夢の記憶自体が曖昧になってしまうので分析も出来ず、寂しさや切なさだけが残るので、長い間持て余してきました。
ずっと昔に胸に刻まれた想いが何十年ものあいだ、形を変えて時々僕だけにドラマを見せるという体験をブログに綴ってみて、少し胸のつかえが軽くなった気がします。