新・一寸の馬鹿にも五分の魂

一寸の馬鹿にも五分の魂があるのだと、二回にわたって強がりを書いてみた。世の中には「賢者」と「愚者」が居て、「愚者」の中には「無思考の愚者」と「同調指向の愚者」と、そしてそのどちらにも属さない誇り高き愚者、すなわち『馬鹿』がいるのだと。そして僕がそのひとりなのだと。痩せ我慢のような強がりを書いて自己満足を求め、いっとき自分自身を慰めてみたわけだけど、まあそれはそれで良しとする。ここで宣言しているように、僕は公開する文章を書いている僕自身に、自己陶酔して遊んでいるようなものだから。
今回の主題の仕上げとして最後に「賢者」について考察を加え、この言葉遊びの幕を引こうと思う。言葉遊びとは言え、書きながら自問自答して自分自身の価値観のいびつな部分を明らかにし、まだ寿命があるものならずっとのちに自分で読み返し、もう一度思索をを試みることが進歩を生む可能性だってあるだろう。それほど大袈裟なことではないにしろ、62歳の頃の僕は青かったなと懐かしめるほどの長寿を得られたら、それはそれでいいじゃないか。

さて「賢者」である。思考力、判断力に優れ、決断力もあり、他者の意見に惑わされず、むしろ他者の考え方に影響を与える者。僕の分類では「賢者」に正義感や良識を必須とはしていない。もちろん、正義感や良識を持った「賢者」が居てくれたら頼もしいが、僕が「賢者」と呼ぶのは、承認欲求や失愛恐怖を意図的に制御して自らの好感度を高く保ち、同調圧力には表面上逆らわずにこれを巧みに誘導し、自らの主張を多数派とできる存在なのだ。はてな?僕の言う「賢者」の性質と「支配層」もしくは「成功者」の持つ性質は、かなりの部分で重複していないか。
ここで僕の内心がまたひとつ明らかとなった。僕が「賢者」と呼ぶのは、僕がなりたくてもなれなかった、妬ましくも羨ましい人間たちのことなのだ。羨望や嫉妬が作り上げた「賢者」というカテゴリーを否定的に揶揄しつつ、自分自身も含まれる「愚者」を更に細分化して、自分は「無思考」でも「同調指向」でもないのだと声高に言い張り、その照れ隠しとして自らを『馬鹿』と呼ぶ。なんとも、浅ましく嫌らしい。
僕自身が作った分類、「賢者」「愚者」そして『馬鹿』。その『馬鹿』にも五分の魂があると誇らしげに僕は書いたが、だとすると今の僕は、この嫌らしい性根のままでは『馬鹿』にすら値しない。時間をかけ回りくどく熟考した挙句に辿り着いた答えは、僕が「無思考の愚者」だと云うことか。
下手の考え休むに似たりとは、よく言ったものだ。