有意義な時間を過ごすために

62歳になって時々考えるのは、やはりあと何年生きているれるか、という余命についてである。医師から病気による余命宣告が無くても、生物としての僕の寿命は統計的なデータから予想できる。運良く自然死を迎えるにしても、62歳という年齢であれば、それが迫りつつあると実感してもおかしくはないだろう。同世代の何割かは既に自然死を迎えているし、新型コロナウィルスの感染症が拡大している現在の状況は、疫病による死の恐怖を増幅する。
残された時間を有意義に過ごそうと考えてみる。さて、有意義とはなんだろう。他者の記憶に残るような成果をあげることだろうか。仮にそうだと決めてしまうと、たぶんそれが果たせなかった僕は、死に際して慙愧し後悔するだろう。だから今更大きな目標を立てることは、自分の能力と環境を考えたら自分自身を追い詰めるだけなので避けるべきである。
そこで僕は、有意義の定義として「退屈しないこと」を自分自身に提案した。退屈しない時間を過ごす。なんと有意義な時間ではないか。退屈しないということは、僕は創作能力か感受能力か運動能力のいずれか、もしくは複数を同時に駆使しているはずだ。そうでなければ、僕は退屈しているか眠っているに違いない。
そんなわけで、僕は退屈の侵入を許さないように、興味を惹かれたテキストを読んだり、映像を観たり、このような駄文を書いたり、駄画を描いたりしている。そうして生まれた文章や画の出来栄えは僕の能力の低さゆえにどうしようも無いとしても、公開することを前提に書いたり描いたりすることの緊張感は、僕から退屈を遠ざける大きな力を持っている。