BBS時代人のSNS観

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった  私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は 誰一人残っていなかった

ドイツのルター派牧師で反ナチ運動組織の指導者だったマルティン・ニーメラーが、聴衆を前にして語ったと言われている言葉をもとに、後世に作成された詩である。「自分には関係ない」と見て見ぬふりをしていたら、自分がいざ迫害対象になる時には、もう声を上げる者は誰もいなかった。
これはいつの世にも通用する警句だと思う。「見て見ぬふり」ばかりではないだろう。インターネット社会において、匿名に守られた安全な立場から、正義面して他者を攻撃して留飲を下げるような無責任な行動が、デジタル空間での私刑を野放してしまう。次の標的が自分になるのかも知れないのに。ネット上での攻撃を「炎上商法」だと逆手にとれる強い人は、そうそう居ないものなのだ。
「自分は大丈夫」という思い込みや「自分には関係ない」という態度が事態を悪化させるのは、なにもインターネットの世界だけではないけれど、還暦過ぎの僕の世代には、出遅れたがためにインターネットに背を向ける人も居るし、情報不足で怖がり過ぎる人も居る。世の中はこれからもどんどん情報通信社会になっていくだろう。還暦を過ぎたからと言っても、更にあと何十年も生きていくかも知れない。公的な手続きがどんどんデジタル化されていく世の中で、インターネットに弱い自分を放置しておくと、子や孫に負担をかける老人になってしまうだろう。

さて、本題に入る。
暴走族を見て、オートバイに乗る者すべてを凶悪な者と断罪するのは短慮であるのと同様に、無責任な匿名投稿の卑劣さや浅墓さだけを見て「SNSは嫌いだ」と背を向けるのも、けっして賢明な態度とは言えない。ソーシャルネットワーク(SNS)も実社会と同じで、様々な価値観と上等から下等までの品位が存在している。実社会との違いは「隠された本音」が聞こえてくる不気味さではあるけれど、考えようによっては毒を含んだタテマエが横行している実社会よりも、真実に近づける可能性を持っている。
実社会の曖昧で嘘臭い人間関係に慣れた者には、SNSは恐ろしいかも知れない。しかし実は多くの者が、SNSに実社会の曖昧さと嘘臭さを持ち込んでおり、本来不要な礼儀や慣習を産み出してSNSを息苦しくしている。そして匿名性を利用して無責任な「正義の鉄槌」を振り下ろすのも、実はSNSに実社会の嘘臭いタテマエを持ち込んだ輩によるものが大部分なのである。
これは実社会の交際をSNSに持ち込んだことに起因している。単に一対一の通信手段ならまだしも、実社会のコミュニティをSNSにそのまま持ち込むから、実社会の曖昧で嘘臭い人間関係も持ち込まれてしまう。SNSとは広範囲で情報を共有する「文通」なのだ。何故に普段から顔を合わせている者同士で「文通」するのだ?一対一でお互いの理解を深める「交換日記」的なものならまだ理解できるが、普段から顔を合わせている関係にSNSは不要だろう。僕はSNSを、会ったことのない人たちや簡単に会えない人たちとの情報交換ツールであるべき、と考えている。
もちろん異論が多い「決めつけ」だと承知している。してはいるが、20年以上インターネットを使い続けてきた僕が、僕の性質上必要な自己防衛策と確信していることなのだ。参加自由のインターネットでは、年齢性別思想信条信仰学歴さまざまである。誰彼構わず繋がるのは、精神衛生上非常によろしくない。これは嫌と言うほど経験済みなのである。まず、実際にすぐ会える人とは、本当に大切な人以外とは繋がらない。繋がっても切ることを躊躇わない。礼儀はわきまえるが愛想は振り撒かない。中身の無い人気者になってどうする。自分の興味のないテーマには反応しない。義理人情は実社会に置き去りにして、SNSでは好奇心と感動に身を任せる。そして、僕特有のこのまわりくどい文体で、200文字以上のテキストを受け付けない人種を排除していく。
僕にとってSNSとは、人と軽い会釈を交わすためのものではなく、浅慮な批判を書いて留飲を下げる道具でもなく、自分にない情報や価値観、思索との出会いを求める場なのである。これはSNS登場以前のインターネットにおいて、お互いのWEBサイトを訪問し合い、ブログや写真など掲載されている内容に、感想を書いたり情報を交換したりしていた、あの古き良きBBS時代の人間の価値観なのだろうと思うが、まったく変える気持ちは無い。