テセウスの船

大学時代の友人から「テセウスの船というドラマを観てるか」とLINEが届いた。
彼の琴線に触れるドラマのようだ。
あいにく僕は観ていなかったのだが、妻が「お父さんの好きそうなドラマだと思った」と録画を残してくれてあった。
ありがとう、助かります。

さて、「テセウスの船」というのは有名な哲学命題である。
テセウスと仲間たちが乗っていた船が長い間保存されていたけれど、木製だから各部位が次々と朽ち果て、その都度新しい部品と交換され保全されていた。
ほぼ全てが新しい部品と交換された船は、はたして「テセウスの船」と言えるのだろうか、という問題である。
要は「同一性」という価値の評価基準が問題なのだと思う。
大量生産されたライターはどれも同じものと言えるけれど、父の形見がその製品であった場合、同じロットの全く同じマスプロ製品であっても、父の形見と他とは別のものだ。
2005年に日本一となった千葉ロッテマリーンズと、2019年に4位だった千葉ロッテマリーンズは、選手も監督もコーチも違うけれど、ファンである僕にとっては同じチームだ。
「人々が同じ川に入ったとしても、常に違う水が流れている」とヘラクレイトスが言ったそうだけど、鎌倉時代に鴨長明が書いた諸行無常を表現する文章「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」の意味は「河の水の流れは絶えることなく流れ続ける状態にありながら、流れているのはもともとの水ではない」だから、「河」という地形属性では同じものという認識を人々は共有しているけれど、「水」という物質属性に着目してみれば「同じ水じゃねぇじゃん」と、きちんと「河」と「水」の属性の違いを使い分けている。
ヘラクレイトスのは、この属性の違いを混在させてしたり顔をする、一種の詭弁だと思うな。