7月28日、台風12号が接近中の静岡市に赴き、相沢先輩との再会を果たした。
おもちゃデザイナーとして、育児評論家として活躍を続けている先輩であるが、実に35年ぶりに会うことができた。
かつて僕が憧れた、先輩特有の「尖らない自己肯定力」は相変わらず健在であり、たとえ先輩が名を遂げず埋もれたままの人生であったとしても、おおらかに自分自身を肯定し伸び伸びと生きていく姿勢は、きっと変わらなかっただろう。
むしろ、そのおおらかな自己肯定力が才能を開花させ、積み木のデザインで国際的な賞を受賞することができたのかも知れない。
僕のように他人から認められなければ自分自身を肯定できない者は、承認欲求や自己顕示欲に振り回されて、結局は自分自身を成長させ得ないのだ。

先輩と再会して、その場に岬とおるが居ない寂しさを痛感した。
先輩は岬とおるのお兄さんと同級生だったので、お兄さんについての思い出話をうかがった。
岬とおるのお兄さんは我らが母校の美術部始まって以来の画才を持っていて、誰しもが芸大合格を確信していたようだ。
しかし、お兄さんは芸大に4回落ちてしまい、僕や岬とおるが大学に入る年に芸大を諦めて私立の美大に進んだ。
お兄さんの画業は完成されていたために、芸大では教えることが無いと判断されたのだろう、と相沢先輩は言っていた。
そんなお兄さんのお話を聞いていて、国立の医学部に現役合格した者と肩を並べる学力があった岬とおるが、浪人もせず僕と同じ大学に甘んじた事情を想像してしまった。
画家を目指し芸大に何回も挑戦し浪人を続けるお兄さんの存在が、岬とおるに影を落としていたんだな、と思ったのだ。
芸大を三浪し画家を目指している夢多き兄の存在は、二人兄弟の弟として、両親を安心させたい、経済的な負担をかけられない、将来は両親の面倒をみなければならない、などという責任感を岬とおるに抱かせたのかも知れないと、その時僕は思った。
真相は違うのかも知れないけれど、もっと格上の大学に行ける学力がありながら浪人せずに僕と同じ大学に甘んじたことや、卒業後も冒険はせず(恐らくは不本意な)企業のサラリーマンになったことなども、僕は岬とおるのお兄さんについて聞かされて、そんなふうに思ってしまった。
岬とおるは大学卒業後に入社した会社を結局辞めて、その後転職を繰り返すことになったので、僕は彼が新卒で入りたい会社に入ったとは思えなかったのだ。

2004年に岬とおるはこの世を去ったけれど、彼のお兄さんもまた2013年に世を去っている。
高校の美術教師になったお兄さんは、二度の結婚をし子供を二人得た。
美術教師として多くの教え子を芸大に送り込み、画家としても評価を得ていたようだ。
いっぽうで、それに負けない才能があったと思われる岬とおるは、その才能を世に出すこともなく、また家庭を持つことも無く世を去った。
芸術的才能に溢れた兄弟は今、静岡市内愛宕山の麓の霊園に眠っている。