ケシカランが内包する危険性

破産して今は無い僕の実家に、これと同じ本があった。
戦前の人気漫画「のらくろ」の復刻版を、亡き母が買ってきたのだった。
亡父は少年時代にオリジナルを所有していたらしく「こんなに厚い本じゃなかった」と言っていたけれど、当時よりもずっと上質の紙に印刷し豪華布装丁函入として復刻版は出版されたから当然だろう。「のらくろ」は黒い野良犬が猛犬連隊(旧日本陸軍がモデル)に入隊し、二等兵から出世していく漫画で、少年倶楽部誌に1931年(昭和6年)から連載され、1941年(昭和16年)に内務省のクレームで連載打切りになるまで続いた。
連載が打ち切られる前から、皇軍を茶化しているという批難があったようだけれど、内容は当時の民衆の価値観に沿って軍隊を美化し全面的に肯定的であり、上官は立派なもの、戦友は大切なものという当時のステレオタイプが描かれており、亡父の年代を軍国少年に育てた一翼を担っていたと僕は思う。
そんな漫画までもケシカランとやめさせる国家は、かなり病んだ軍国主義だったのだな。
インターネットの匿名性が産む誹謗中傷の暴力を問題視することには賛成だけれど、それらを大雑把に捉えてケシカランと圧殺するような暴説は、結局のところ「誰かを悪者にして自分の利己的な溜飲を下げている」という点で、根拠の乏しい風評に匿名で便乗し正義漢ぶっている連中と同じなのだ。
もしも軍国主義時代の日本の指導層がもう少しクレバーだったら、恐らく「のらくろ」を戦意高揚に利用していただろう。
もしそうなっていたら作者の田川水泡先生は戦犯として戦後の活躍の場を失い、長谷川町子先生は田川先生の内弟子とはならず、「サザエさん」は産まれていなかったかも知れない。
頭の固い軍国指導層と体育会系単細胞たちのおかげで、日本の漫画文化は守られたのだな。
世に生きる者として大切なのは「思いやり」であり、それは軍国日本の名作漫画「のらくろ」にも描かれている。
そういう情誼すら戦時には相応しくない弱気と断罪する狂気こそ、二度と地上に現れて欲しくないものだ。

宗教は一度疑ってみてそれでも信じる気持ちになってから信仰すべきであり、ケシカランと憤ったものに対しては肯定すべきところを徹底的に探ってから断罪しないと、どちらも選択を誤ることになる、というのが僕の信条なのです。