中国コミックについての江間君との対話

Facebookでの江間君の投稿に対する僕のレスポンスをここに採録しておく。

江間君中国のアイドル級美人漫画家「夏達」の作品
中国人の漫画技法が上達してきたら、また漫画界の大量生産、価格破壊が始まるんじゃないだろうか?
日本はもう技術を超えて、芸術性や創作力で勝負しなければいけないかも。

南瓜庵イラストでは、既に中国の若いアマチュア作家たちがものすごく上手いので、そのうち日本のアニメも追い抜かれるでしょう。
中国の進歩発展を損なう剽窃と粗悪安価志向も、この分野では拡がらないと思います。

江間君:はい、中国の追い上げはきついですね。
ここで日本がアドバンテージ守ろうとすれば「漫画は、工業製品か?芸術か?」という方向に行くんじゃないかなあと思っています。

南瓜庵:中国のアドバンテージは国家の強力な援助、そして人口です。
作家を産む分母の大きさ、国内市場としても規模が巨大。
国際的なネット配信環境では、セリフの横書き(コマの左から右への遷移)、ページの縦スクロールが漫画の基本ルールとなるでしょう。
縦書き前提の従来の漫画雑誌の形式に拘泥されていると、静止画図案物語表現の分野でガラパゴス化するかも知れません。
工業製品=量産整合性という解釈で言うと、「芸術か工業製品か」という論点は存在せず、「量産型芸術と寡産型芸術」という分類の問題であると考えます。
漫画は印刷による量産によって思想・情緒が伝達される文化であり、原画を展示観賞する古典的文化とは当初から別物だからです。
ラジオ放送のコンテンツを劇場で実演観賞することもありますが、本来は放送されるものであり録音編集も邪道とはされず、そこが劇場での実演を前提とする浪曲・漫談等の話芸とは別物であるのと同様に、印刷を前提とした作画文化は印刷に顕れない修正加工が許されますので、原画の展示観賞を前提とした作画文化とは次元の異なるものなのです。
後者のみを「芸術」とする価値観では、前者の価値を評価できません。
表現の伝播媒体が「劇場」→「印刷物」→「電波」→「デジタル」と移行してきた中で、「アニメ」は言語的な障壁の無い表現であり、「絵本」や紙芝居的な「連環画」も言語的な差替えが容易な媒体です。
いっぽうでコマの配置にも表現がある漫画(劇画)は、縦書きと横書きによってセリフスペースの配置が違い、それが画面構成(構図)に大きな影響を及ぼしていますし、さらにコマの視認遷移が右方向(横書き)、左方向(縦書き)という違いを持っています。
スマートフォンという端末の普及により、ページ遷移は縦スクロールという方向で統一されつつありますが、テキストの縦書きが前提である日本の漫画は、コマの左方向遷移という点で、ヨーロッパのバンド・デシネやアメリカンコミックの横書き右方向遷移文化と対立します。
日本漫画の心理的情緒的な内面表現を学び、バンド・デシネのフルカラー&横書き右遷移を採っている中国コミック作家たちが、国家の後押しも受けつつネット媒体で世界を席巻する日は近いでしょう。
唯一の弱点は共産党による思想表現の弾圧ぐらいですが、ネット媒体は国内向けと海外向けの配信コントロールが可能なので、外貨獲得に向けた限定的な表現解放と居住地域限定施策で、国内の騒擾を回避できる国土を持っています。

フランスなどでは日本漫画の消費が小さくありませんが、既述の縦書き左方向遷移がネックとなってマーケットはサブカルチャーの域を出ません。
ルネサンス絵画からアールヌーボーへの変遷を見れば、作画表現における古典的な美術的価値観による動物骨格の呪縛が西洋の漫画表現に限界を与えており、それを無視する日本の漫画表現の自由さが西洋人の琴線を刺激したのだと思います。
文化・情緒的にもキリスト教価値観の域を出られない西洋人の発想は、自由な発想に対する異端的背徳感に支配されて旧守的であり、それも日本漫画に魅力を感じる要因でしょう。
これら自由な日本漫画の表現力を吸収し、日本人以上に自由無節操で才能あふれる中国人コミック作家たちが、横書き右方向遷移というスタンダードを持って国際コミック市場に出てきていますので、世界から優秀なアニメーターの引き抜きをおこなっている中国アニメ産業と同時進行で、世界を席巻する日は近いと思います。

江間君:詳細なレクチャーありがとうございます。
この分野(漫画・アニメ)での日本の生き残り方法はあるんでしょうか?
私は、「芸術性を深める」ことだと思います。

南瓜庵:江間さんの言う「芸術性」の定義が良く解りませんし、その評価を誰がどのように下すのでしょうか。
明治時代初期に来日したアーネスト・フェノロサによって日本美術(作画や工芸)が欧米に紹介され高評価を受けるまで、日本人は自らの先人が残した文化遺産の価値を評価できませんでした。
「芸術性」とは本質的に鑑賞者個人の心証に帰するものであると思うのですが、我が国で客観的にそれを論じる場合、権威によるお墨付きが必要です。
またいっぽうで、エンターテイメント性の高い創作作品の「芸術性」は低くみられる傾向が我が国にはあり、大衆文化であり商業的に成功した漫画作品はエンターテイメント性が高いので、「芸術性」という評価軸で語られることは少ないでしょう。
恐らく江間さんはそんな日本での評価ではなく、国際社会における日本漫画の評価として「芸術性を高める」とおっしゃっているのでしょうね。
作品として内容と表現力を国際的に評価されるためには、既述のように圧倒的多数の横書き文化(更にその多数派である左から右に読む国々)に向けて、コマの遷移方向と台詞スペースの対応が重要だと思います。
もうひとつの方向性としては、現状のスタイルを維持し日本文化の一部として更に神秘のベールをまとい、理解しがたいものに不思議な高評価を与える欧米知識層の支持を獲得する方法がありますが、江間さんのそもそもの主題が「日本漫画の生き残り」とある以上は、商業的なシェアの問題なのだと推察します。
日本映画でも国際的に評価を得るために「字幕」ないし「吹き替え」が必要だったのですから、コミックスも言語的な差替えが可能な表現形式を持たないと、江間さんの言う「芸術性」の評価も得られず、商業的なシェアも失うのではないか、と思います。
作画と散文の融合であるコミックスの中に美的コミュニケーションを感じるかどうかは読者の力量と趣味嗜好に依りますので、「芸術性を高める」という言葉が「多数派の心証に添う」という意味であれば、作画のウェイトを高めるか言語的融通性を高めるか、であろうと思います。
作画で言えば「カワイイ」が国際共通語となっているように、目の大きなキラキラした少女漫画由来のアニメタッチが世界的に人気です。
これが「芸術性を高めた」結果だとは、僕には思えないのですが。

江間君: 圧倒的なご意見ありがとうございます。
芸術性の定義は難しいですね。
でも、実感として「芸術的だ」と思える作品は日本の漫画/アニメに多く見られますし、私は30年前から韓国の漫画を見ていますが、まだ大量生産大量消費という言葉が頭に浮かぶような作品しか見えません。
むしろ台湾のほうが芸術と思えるような作品がボツボツ現れているようで、中国大陸はものすごいスピードでそれに追随しているような印象を持っています。
芸術性と言う言葉を定義しないまま進めるのですが、日本の作品は裾野が広いせいでしょうか?私から見ても芸術的と思える作品によく出会います。
比較的最近では諫山創、鶴田謙二、芦奈野ひとといった作家。
みんな絵はそれほどうまくないですが私が芸術作品と感じる人々です。
今の所、こんな漫画家たちは中国の漫画に「勝てる」と感じますし、この域に達するのは時間がかかると思います。
中国の漫画が大量生産で覇権を目指しているのならこの域にはなかなか達しないと思います。
そこに日本漫画の生き残る道があるのかなと思っています。

南瓜庵:江間さんのほうが現在の日本のコミック作家をよく把握されているようですので、作家の層の厚さは当面安泰なのでしょう。
ただ、イラストでは中国勢の作画技量の高さはかなりのものだと思いますし、 コミックスでも欧米横書き文化圏への対応が進んでいるように思うのです。
江間さんが「みんな絵はそれほどうまくないですが芸術作品と感じる」とご指摘されているところからして、江間さんが感じる「芸術性」は物語、台詞、演出、構図といった部分なのではないでしょうか。
私はコミックスの市場がインターネットによって国境を越えるという前提で書いていますが、江間さんが賛美する日本コミックスの美質が、コマ右方向遷移の横書きコミックス文化圏の読者の理解度をいくぶん損なう可能性を考えています。
ヨーロッパには、コマ左方向遷移の日本コミックス文化に慣れ親しんだファンが少なからず存在しますが、バンド・デシネに慣れた多くの大衆は、コマ右方向遷移に慣れています。
文字を読む流れとコマ遷移は同一方向であるほうがテンポが良いので、そうでない場合はコミックスのダイナミズムを阻害します。
コマの流れのダイナミズムではアメリカンコミックスやバンド・デシネを凌駕する日本コミックスですので、横書き文化圏ではそれがうまく伝わりません。
アメリカンコミックは相変わらず陳腐な内容から脱却できませんが、バンド・デシネでは台詞の少ない静的で哲学的な表現も少なくありません。
物語重視の日本コミックスに比べ、バンド・デシネはメッセージ性が高いものが多いように思います。
そして、フランス人やベルギー人の求める「芸術性」は、バンド・デシネの中にあるように思うのです。
日本コミックスに対する欧米人の支持の基本は、欧米人の感覚からは産まれ得ないデフォルメ(特に目が大きく睫毛の長い美少女キャラクターなど)から感じる異質な愛らしさと、またいっぽうで自国のコミックスには存在しない長大な物語性だと思います。
日本コミックスの長編に相当するような長大な物語は、小説や戯曲でしか存在しません。
しかし、世界は日本コミックスから学んでいます。
将来、コミックスのプラットホームとして「コマ右方向遷移」がデファクトスタンダードとなった場合、そして諸外国で文学や脚本などからコミックス製作に人材が流入した場合、日本コミックスは日本の工業製品が辿ったような道を転がり落ちるかも知れません。

江間君:なんだか教えてもらっているだけのような気がしますが…
バンド・デシネって初めて知りました。なかなか美しい作品もあって楽しめそうですが、日本の漫画とはジャンルが違うという感じがしました。
芸術性について、はい、私の感じる芸術性は物語、台詞、演出、構図といったものです。もう少し言うと、描写したい心情というか状況を構図、効果線、セリフ等を総動員して表現するその技法に芸術を感じます。
コマ右方向遷移の横書きコミックス文化というのは確かに大きな高い超えられない壁のように思えます。
けれど、昔タイで見たドラエモンの翻訳漫画のように、ページ全体を左右反転させて吹き出しに横書きセリフを無理やり押し込み、無理やり左から右にページが流れるようにしてやればいいんじゃないかと思います。
左右反転された表現は元の表現と違うものになってしまい、本当のニュアンスが損なわれるのですが、それなら、翻訳した時点でニュアンスは損なわれるし、国同士の文化の違いがもっと超えられない壁として存在するので、その程度の割り切りは必要かと。(20年前の中国のドラエモンはしずかちゃんの入浴シーンが黒塗りされていました。)
コマ割りの違いや文化の違いを乗り越えても感じる芸術性を、私は日本の漫画に期待します。

南瓜庵:まず「昔タイで見たドラエモンの翻訳漫画のように、ページ全体を左右反転させて吹き出しに横書きセリフを無理やり押し込み、無理やり左から右にページが流れるようにしてやればいいんじゃないか」とのご意見に対して。
幼児向け漫画のコマ割はシンプルさを要求されますので、『ドラえもん』のコマ割りは水平・垂直です。
また、キャラクターの動きも静的であり、スポーツや戦争漫画のように「左右」に大きな意味を持ちませんから、左右反転の荒業も作品を大きく損なうことが無いのかも知れません。
しかし、それでもクリエーターとしたら許せない改竄です。
江間さんが見たタイの『ドラえもん』は海賊版ではなかったのでしょうか。
正規ルートで輸出されている日本のコミックスは、吹き出しの中こそ現地言語に差し替えられているものの、コマの遷移が逆である説明が付与されています。(読み方ガイダンス付き)
それでも、同じコマの中では、下よりも上の吹き出し、左よりも右の吹き出しを先に読む(そのシーンで先に発声された、もしくは先に認識して欲しいモノローグ)という暗黙のルールが日本コミックスには存在しますので、コマの遷移方向以外にも左右問題は残ります。
私がネットコミックスに国際化の可能性を感じるのは、書籍が逃れられない「右開き」「左開き」という、物理的呪縛からの解放です。
書籍のページ遷移は横書きおよび縦書きの読む方向に準じます。
書籍からの移植ないし書籍用に描かれたコミックス作品の場合は、ネットでも右スクロールか左スクロールとなっています。
しかしながら、上から下への記述遷移は世界共通ですので、縦スクロールがネットコミックスの世界基準にふさわしいと考えます。
あとは、言語表記の問題であり、日本語は横書きにも対応できる柔軟性がありますから可能なのですが、日本はコミックスの国内市場が成熟しておりボリュームがあるために、売れる作家が日本向けに留められてしまいます。
いっぽう中国は国内での表現活動が抑制されていますので、コミック作家の国内向け創作活動も不自由であり、そのためもあってコミックスの国内市場の生育も遅れています。
ところが外貨獲得の可能性のある外国向けコミックスは自由であり、国家予算の援助もあり得る政策環境にあります。
コミックス市場のための印刷・物流インフラも不十分ですので、それが中国のネットコミックス普及を後押ししているように思います。
縦書き記述発祥の国であり、かつ横書きにも対応していますので、ネットコミックスの表現スタンダードを中国が確立しプラットホーム化する可能性を感じます。
日本コミックスを確立されたジャンルとして評価するのであれば、既作の作品群は日本の誇るべき文化遺産としてジャポニズムの一翼を担うでしょう。
その意味では永遠不滅のジャンルです。
そもそも海外のコミックスとはジャンルが違うというのであれば、国際競争力の議論は的外れだったということになります。
私は非言語視覚情報を含む複合メディアとしてのコミックスが、文化・国境を越えた表現媒体となり得るという期待感と予測から、印刷媒体からデジタル媒体に移行するという前提で、国際競争力という観点から日本コミックスが持つ弱点について論じてきました。
情報のデジタル化がすすんできていても、いまだにコミックマーケットに大多数が押し寄せ印刷媒体を買い漁る日本のコミックス予備軍を見ていると、既に成熟し動かし難い孤高の文化になっているのかも知れませんね。