オルタナティヴ・コミック

アメリカンコミックは厳しい締め切りの下で、ライター(原作)、ペンシラー(下書き)、インカー(ペン入れ)、レタラー(文字)、カラリスト(彩色)、エディター(編集)から構成されるチームによって制作され、作品の大筋は出版社により決定される。
これに対して、オルタナティヴ・コミックは、しばしば単独の作家により原作・作画が行われ、制作スケジュールはほとんど考慮されず、作者自らが作品を完成させたと判断した時点で出版される。
大手出版社の商業主義的な漫画製作に対して、創作性を重んじた「別の選択肢(オルタナティヴ)」として、こう呼ばれる。(Wikipedia より抜粋)

日本の漫画はここまで分業システムが確立されてはいないけれど、原作付きはよくあることで、連載をこなすためにアシスタントを雇い作業を分担して生産性を高めることも一般的だ。
出版社も漫画家もビジネスであり、商業主義的であって当然だとも言える。
ただ、漫画家のアイデアに編集者が過剰に介入することはよくあるようで、その態度にも不遜なものがあるという。
有名なところでは楳図かずお氏がこのために休筆してしまったけれど、大手出版社の編集部門の入社難易度は新聞社の記者部門に勝るとも劣らないから、それに受かる人間は偏差値信仰の持ち主であり、文学は尊敬しても漫画を軽蔑する人種が多いだろうことは容易に想像できる。
ジャーナリズムか文学の編集者になりたかったのに、「なんだ漫画雑誌の編集かよ」、と配属に落胆した人も少なくなかろうから、漫画家を見下してしまうのだな。
出版社や編集者による漫画家の創作活動による過剰な介入も、つまるところは商業主義が産む圧力であり、ビジネスだから否定できない。
ただ、漫画家も「作家」なのだから、売れる(金になる)から気を使うのではなく、売れなくても創作者の尊厳には配慮して欲しいものだ。
しかし、小説家であってもネームバリューの無い作家は粗末に扱われるようだから、出版界も芸能界のようなものなんだな。

さて、日本のオルタナティヴ・コミックと云えば、商業主義よりも作家性を優先した「ガロ」や「COM」を思い出す。
「COM」は僕が漫画を描き始めた頃には廃刊となっていて古本屋でしか手に入らなかったけれど、「ガロ」は大学生の頃でも書店の店頭に並んでいた。
漫画表現の可能性を拓き芸術性を高め、結果的に経済的にも貢献した両誌だけれど、今は「ガロ」も休刊してたぶん復活は無いだろう。
商業主義を廃したらビジネスとして行き詰まるのは当然とは言え、両誌が存在したことは日本漫画界の幸運だったと思う。

こういう思い出話も、岬とおるが生きていてくれたら、酒を酌み交わして花を咲かせることができたのだろうと思うと、やはり寂しい。

相沢先輩と35年ぶりに再会

7月28日、台風12号が接近中の静岡市に赴き、相沢先輩との再会を果たした。
おもちゃデザイナーとして、育児評論家として活躍を続けている先輩であるが、実に35年ぶりに会うことができた。
かつて僕が憧れた、先輩特有の「尖らない自己肯定力」は相変わらず健在であり、たとえ先輩が名を遂げず埋もれたままの人生であったとしても、おおらかに自分自身を肯定し伸び伸びと生きていく姿勢は、きっと変わらなかっただろう。
むしろ、そのおおらかな自己肯定力が才能を開花させ、積み木のデザインで国際的な賞を受賞することができたのかも知れない。
僕のように他人から認められなければ自分自身を肯定できない者は、承認欲求や自己顕示欲に振り回されて、結局は自分自身を成長させ得ないのだ。

先輩と再会して、その場に岬とおるが居ない寂しさを痛感した。
先輩は岬とおるのお兄さんと同級生だったので、お兄さんについての思い出話をうかがった。
岬とおるのお兄さんは我らが母校の美術部始まって以来の画才を持っていて、誰しもが芸大合格を確信していたようだ。
しかし、お兄さんは芸大に4回落ちてしまい、僕や岬とおるが大学に入る年に芸大を諦めて私立の美大に進んだ。
お兄さんの画業は完成されていたために、芸大では教えることが無いと判断されたのだろう、と相沢先輩は言っていた。
そんなお兄さんのお話を聞いていて、国立の医学部に現役合格した者と肩を並べる学力があった岬とおるが、浪人もせず僕と同じ大学に甘んじた事情を想像してしまった。
画家を目指し芸大に何回も挑戦し浪人を続けるお兄さんの存在が、岬とおるに影を落としていたんだな、と思ったのだ。
芸大を三浪し画家を目指している夢多き兄の存在は、二人兄弟の弟として、両親を安心させたい、経済的な負担をかけられない、将来は両親の面倒をみなければならない、などという責任感を岬とおるに抱かせたのかも知れないと、その時僕は思った。
真相は違うのかも知れないけれど、もっと格上の大学に行ける学力がありながら浪人せずに僕と同じ大学に甘んじたことや、卒業後も冒険はせず(恐らくは不本意な)企業のサラリーマンになったことなども、僕は岬とおるのお兄さんについて聞かされて、そんなふうに思ってしまった。
岬とおるは大学卒業後に入社した会社を結局辞めて、その後転職を繰り返すことになったので、僕は彼が新卒で入りたい会社に入ったとは思えなかったのだ。

2004年に岬とおるはこの世を去ったけれど、彼のお兄さんもまた2013年に世を去っている。
高校の美術教師になったお兄さんは、二度の結婚をし子供を二人得た。
美術教師として多くの教え子を芸大に送り込み、画家としても評価を得ていたようだ。
いっぽうで、それに負けない才能があったと思われる岬とおるは、その才能を世に出すこともなく、また家庭を持つことも無く世を去った。
芸術的才能に溢れた兄弟は今、静岡市内愛宕山の麓の霊園に眠っている。

黄色い涙

6月10日は永島慎二先生の命日である。
先生の代表作は一般に「漫画家残酷物語」だとされているようだけれど、僕にとっては「若者たち」だ。
1974年にこの作品がNHK名古屋でドラマ化される際に、1966年にフジテレビが放送した人気ドラマとタイトルがかぶるので、脚本家の市川森一さんが永島先生の一連のシリーズ名の「黄色い涙」というタイトルを選んだ。
僕はこれをリアルに観ていたけれど、小椋佳さんが歌う主題歌(佐藤春夫の「海辺の恋」)もよかった。
僕はこの歌が鼻歌で出てしまうくらいに覚え親しんでいた。
「海辺の恋」という詩が佐藤春夫と谷崎潤一郎夫人との許されざる恋の歌だと知ったのは、ずっとあとのことだ。
永島慎二先生の画風はとても魅力的で、僕の漫画仲間にも大きな影響を与えた。
岬とおるにもその香りがするし、素直な性質の篠塚としおの作画には永島慎二タッチが濃厚に出ている。
僕だって惹かれたけれど、敢えてその誘惑に背を向けていた。
それが、僕の画風が定まらず表現力を伸ばせなかった所以であったかも知れない。
永島先生が亡くなった時、僕は岬とおるや篠塚としおと語り合いたかったけれど、遠く離れて暮らしていて、それは果たせなかった。
今になって知ったのだけれど、岬とおるは永島先生よりも9ヶ月早く、この世を去っていたんだな。
僕たちを含め、多くの「若者たち」が迷走の挙句に歳をとり、還暦を迎えたんだと思うと、その中に岬とおるが居ないというのは、とてもとても寂しい。

岬とおる関連の作画

岬とおるが既に亡くなっていたという事実は、僕のささやかなお絵描き人生における最大事件だった。
外国に去っていったというのなら、現代はなんらかの通信手段でコンタクトできる。
しかし、黄泉に逝ってしまったのでは、もうどうしようもない。

彼の死を知ってから、僕は3枚の作画をした。

彼の死を確認してまず描いたもの。

僕にとっての彼の墓標を描く結果となっている。

その後、哀悼の念が強まり描いたものがこれ。

そして、岬とおるの一番の理解者だった「チロンヌップ」誌編集長、柴田氏のために描いたもの。

どれ一つとして岬とおるの作画には及ばない。
僕は永久に追いつけない才能と出会い、そして一方的に去られてしまったのだな。

岬とおるの墓に再び

梅雨入りし、長期予報でも雨模様の中で唯一の晴れの休日だった昨日、岬とおるの墓に二度目の墓参。
最初の墓参から約一か月ぶりだったけれど、家族が死に絶えた彼の墓は思ったとおり汚れていた。
軽く清掃をして花を供え香華を手向ける。
そんなことをしても彼は戻りはしないけれど、僕の人生において重要な人だったと改めて思い知る。
僕はお絵描きを再開して毎日描いてはいるけれど、一生かかっても彼の足元にも及ぶまい。

BBS撤去

このサイトの復活に際し、昔懐かしいBBSを設置してみたけれど、荒らされてしまったので撤去しました。
ある程度の予測はしていたけれど、昔のセキュリティの仕組みでは現在に通用しませんな。
投稿されることも滅多になかったので実害はありません。
私にコンタクトをとりたい場合は下記のタンブラーサイトにアクセスしてみてください。

鈴木南瓜庵のイラスト展示サイト

「あぴいる」と「ぱんぷきん」

1973年の夏、当時高校1年生だった僕と岬とおるは、四谷公会堂で開催された「第2回漫画大会」に参加した。
この漫画大会は内部分裂ののち、コミックマーケットに発展し同人誌文化の担い手となったものだけれど、当時も既に同人誌の即売会はあった。
ここで僕は大量の漫画同人誌を買い漁った。
漫画同人誌というものを作ってみようと思い立ったからだ。
買い集めた同人誌の中でも、センスに溢れていたのが、ぐるーぷANTIの「あぴいる」だった。
青焼きコピーの袋とじで少ページという形態が、模倣するのに好都合でもあった。
僕の実家に青焼きコピー機があった、ということも大きかった。
当時、市高漫研の部誌「ひま」は(休刊中で伝説と化していた)謄写版印刷であったし、この年の暮れに創刊された文芸同人誌「あっぷあっぷ」も謄写版で、表紙と挿絵を頼まれた岬とおるは鉄筆で見事な作画をしていた。
自分たちで出版物を作る場合は謄写版が当然だと思い込んでいた時代に、青焼きコピー誌の可能性を教えてくれたのが「あぴいる」だった。
ページ数が少なくても構成で見栄えのするものが作れることも、「あぴいる」で学んだ。
翌1974年、僕は青焼きコピー漫画同人誌「ぱんぷきん」を創刊した。
「ぱんぷきん」はセンスの光る岬とおると丁寧で美しい作画の篠塚としおに支えられた同人誌だった。
僕にとっては、自分自身の力不足を思い知ることになる同人誌作りではあったけれど…。
最後の6号は、表紙だけオフセット印刷(篠塚としお画)、中身は青焼きコピーというものだったけれど、奥附には「1981年1月1日発行」とあり、篠塚としおが編集している。
この号に岬とおるは寄稿しておらず、別の目的で描かれた彼のイラストが掲載されているのみである。

孤高の才能

数日後に岬とおるの墓をお参りする。
もっと彼の作画を見たかったな。
技術的に巧い人は大学の漫研や同人雑誌にもたくさん居た。
でも、ヤツの才能に匹敵するセンスには、お目にかかったことが無い。

【追記】
5月4日に岬とおるの墓参りをした。
彼の墓は高台にあり、天気が良かったので五月の風が颯爽と吹き抜け、気持ちが良かった。

わらべあきひとに捧ぐ

同人誌活動におけるライバルは、わらべあきひとだった。
彼は僕と同じように筆名を変える人だったので、ここでは僕にとって最も印象に残る時代の筆名を採りあげておく。
僕が「ぱんぷきん」を創刊する前年、1973年の暮れに文芸同人誌「あっぷあっぷ」が創刊された。
藁半紙にガリ版刷で袋綴じという昭和四十年代らしい体裁の本だったけれど、僕の身近で初めて作られた同人誌だった。
この本を作った編集長が、のちに「わらべあきひと」の筆名を持つことになる。
表紙および挿絵は岬とおるが描いている。
岬とおるは「ぱんぷきん」では盟友だったけれど、同時にライバル誌のお抱え絵師でもあった。
この関係は高校・大学を経て岬とおるが亡くなるまで続いた。
僕と岬とおるとわらべあきひとは、終生の創作仲間だったのだ。
童話同人誌「チロンヌップ」はわらべあきひと入魂の傑作同人誌であり、岬とおるがもっとも多く作品を残した本でもある。
その「チロンヌップ」誌にわらべあきひとが書いた童話「魔女とか云われて」の挿絵は、岬とおるの傑作のひとつだと思う。
僕のタッチは童話向けではないけれど、わらべあきひとへのオマージュを描いてみた。