箱根八里は僕でも越せる

既に大学2年生になっていて、東京都調布市にアパートを借りていた19歳の頃のことである。静岡市の実家に帰省中だった夏休みのある日、父親と口論になって激怒した僕は家を飛び出し、高校時代に通学で使っていた自転車で調布のアパートに戻るべく走り出した。激怒のあまり、迂闊にも無一文で飛び出すという拙速を犯したが後の祭り。意地でも家に戻るものかとペダルを漕ぎ、箱根峠の中腹でついに体力が尽きてしまった僕は、路傍の石材に横たわって仮眠することにした。

深夜まばらに通る自動車のヘッドライトで周囲の景色が暗黒から浮かび上がり悟ったのは、横たわっている石材が慰霊碑のような墓石のようなものだったということ。急に恐ろしくなって一刻も早くその場から立ち去りたいと自転車にまたがったが、仮眠したせいで体が冷え、足の筋肉がコチコチに固まってしまっていて、自転車のペダルが漕げない。

それでも恐怖心が勝り、僕は自転車を押しながらトボトボと峠を登っていった。ようやく下り坂になった頃には夏の早い夜明けが始まろうとしていたけれど、僕は自転車に跨ると下り坂を一気に滑走を始めた。やがて行く先に料金所が見えた。僕はどこかで道を誤り、箱根新道という自動車専用の有料道路を下ってきたのだった。

料金所で咎められたらまずい。何と言っても一文無しなのだ。僕は逆方向に転じて坂を少し登り位置エネルギーを蓄えてから、下り坂を猛然と加速して一気に料金所を突破した。その勢いのまま小田原を必死で走り抜け、大磯から茅ケ崎あたりにまで到達した。誰も追跡してこないことを確認して少し安心し、のんびりと走り始めた。早朝の街に配達のトラックが増え始め、店先に食パンが積まれていたりする。それを盗んでしまおうか、と思ってしまうくらい、僕は恐ろしいほどの空腹になっていた。

さすがに無一文ではまずい。友人に借金しようと思い立ち、そこから一番近いと思われた相模原市に住む友人のアパートに向かった。進路を北に向け、海老名や厚木を通り、かなりの時間をかけてたどり着いた友人宅は、残念ながら留守だった。疲労は極限に達していて落胆は大きい。途方に暮れた僕の目に入ったのが、友人宅のドアの前に大量に並んだコーラの空き瓶だった。他の部屋の前にも、同じようにコーラやビールの空き瓶が並んでいる。その時僕は閃いた。自転車の前籠に積めるだけの空き瓶を積むと、僕は酒屋を探して走り回った。ようやく見つけた酒屋に空き瓶を持ち込むと、僅かな小銭と換金できた。僕は人目を避けつつ、ほうぼうのアパートに放置されている空き瓶を集め、何度も同じことを繰り返して何百円かの現金を手にすることができたのだった。それで稲荷寿司を買い、僕はようやく空腹を満たすことが出来た。たぶんこれも窃盗罪になるのだろうけれど、もう時効が成立しているはずなので、ここで告白しておくことにする。

ともあれ、僕は次の借金先を求めて、世田谷区東北沢の友人のアパートに向かった。道に迷うといけないので、相模原からは小田急線に沿って自転車を漕いでいった。幸いにもこの友人は帰省せずにアパートに居てくれたので、金を借り一晩泊めてもらってから、僕は調布市仙川の自分のアパートに向かった。

アパートに着いてみると、ガス・水道は使えたけれど電気が止められていた。迂闊にも使用料金を滞納していたからだけど、僕は東京電力は酷薄なものだと逆恨みした。仏壇店で大きめの蝋燭を買ってきて夜間の照明とし、電気を断たれたので炊飯器が使えないため、少しばかり残っていた米を煮て食べたりした。

すぐに現金が貰える日雇い人夫でもするかと考えていた矢先に、蝋燭を灯して生活していることを同じアパートの誰かが管理している不動産屋に密告したために、「火事にでもなったらどうする」と厳しく叱責されてしまい、僕の逃亡生活は数日で終了することとなった。

コレクトコールで家に電話し、父親に詫びを入れて送金してもらい、電気料金を払い込んで通電を回復し、家賃を先払いして不動産屋の信用を取り繕ってから、僕は新幹線で静岡に戻ったのであった。

夏休みが終わりアパートに戻ってみると、箱根越えを共にした自転車が無くなっていた。探し回ってみると、少し離れたところにある児童公園で、高校の時の通学証シールが貼られた自転車の残骸を見つけた。

すべては1977年の、夏の出来事である。