ブログを書く意味について

僕がこうしてブログを書く理由は、書きながら自分の考えを整理できるからだけど、それだけならばブログとして公開する必要は無い。公開するのは、他者にも読まれ得る緊張感によって、自分自身の思索が深まるからである。
そして自分の内面を晒して人に見せるのは何故かと言えば、僕が少年期からずっと抱いている「僕は君たちとは少し考えや好みが違うかも知れない。でも仲間外れにはしないでおくれ」という願望に他ならない。
僕は子供の頃から、関心のある事柄について常に少数派に属してしまう。僕の価値観では関心のある者同士は「仲間」であり、対立するとすれば、その相手は「無関心な者」であるはずなのだ。しかし現実は、関心の無い者と関心のある者との間にはそもそもコミュニケーションなど存在せず、したがって対立の起こりようも無いのである。
このことから明らかとなるのは、「対立」とはコミュニケーションの産物ということである。コミュニケーションが前述のごとく「関心のある者」同士にしか成立しないので、少数派に属すると疎外され、孤独感に苛まれる。少数派だから主張が強くなり、それが疎まれるという部分もあることは認めるけれど、主張が強くなるのは「通じていない感」と「相手にされてない感」を強く感じてしまうからに他ならない。
そして「対立」のもうひとつの要因は、多数派が多数であるという事実に安住して思考を停止してしまうからである。「じゃあ、みんなに聞いてみましょうよ」という評価判定方法。なぜ?君はどう思うの?問題はそこでしょ?僕は苛立ち言葉は荒くなる。成長と生活の中で刷り込まれた「~であるべき」「~すべき」「普通は~でしょ」「~であるのが常識」という情報を、なぜ吟味もせずに盲信し続けているのか。
僕だって社会常識ぐらいはわきまえていて、社会生活を送るうえでそれに従って生きているフリをする「したたかさ」ぐらいは持っている。でも僕はその裏で考えている。その「普通」とは「その他」と同義ではないのか?その「常識」を裏付けるものはなんだ?その「義務」の根拠は?納得できて初めて、それらの情報は「僕の常識」に格納される。格納された後でも、他者からの啓蒙と自分自身の思索の新たな結論によって、それは容易く廃棄される。
価値観が揺るがないのは思考停止の証拠だろう。思考を止めなければ、人の価値観は絶えず揺らめいているはずなのだ。その「揺らぎ」を記録しておくことは、自分自身にとって有意義であり、他者にとって興味深い結果を残すことにもなる。
そのひとつがブログを書くことなのだ。公開し他者に読まれ得るからこそ意味がある。書籍同様にインタラクティブなコミュニケーションではないから、仮に内容に対する「賛同」や「同意」が無くとも「対立」を産まない。書籍のように著者の権威が担保されていないぶん、読む側の感受性は対等の意識を保つことができる。講演を聴く時のように、話し手の容姿や声、話し方といった印象が情報の価値を変質させることも無い。
ブログと似ていて非なるものが、ソーシャルネットワーク(以下SNS)だろう。SNSにはフォローとか友だち登録という方法で、人を結び付ける機能が備わっている。その結びついた関係を解消することで「不満」や「不信」が生じるのは、リアル社会と変わらない。昨今は表面上は結びつきが保たれているように見せかけて、実は切れているという機能も追加されている。SNSはインタラクティブなコミュニケーションなので「対立」が発生しやすい。好感度を保つ「仮面」は、SNSでは必須なのである。
ブログでも好感度を重視するのは書き手の自由であり、それも価値観の表現のひとつだろう。ともあれ思索を続け、それを記録することをお勧めする。読ませることを目的とせず、しかし読まれることが可能な状態で保存する。ブログを書くのは自分のためだから、読ませることを目的としなくていい。他者が読み得る状態にすることも、緊張感を持って真剣に思索する自分自身のためなのだ。