日記の限界~なぜブログなのか~

僕は ハイコンテクスト文化の喪失 という駄文を書いて、暗黙の共通認識に頼るに日本語コミュニケーションが、インターネット世界においては通用しない(弊害ですらある)と指摘したけれど、自己完結している精神世界においても、ハイコンテクストは自己の成長にとって弊害だと考えている。
それが、僕が日記をブログとして公開している理由でもある。
誰かに読ませるためではなく、誰かが読むかも知れないという環境こそが、徒然に思索し文章を書くことにおいて、自分のためにとても重要だと考えるからだ。
自分ですら読み返さない日記ならばそもそも書く意味は無いので、のちの自分に書き送る手紙のような気持ちで日記を書くのだけれど、自分しか読まない環境で書く文章は自己完結した究極のハイコンテクストなので、無意識のうちに説明不要を前提として書かれてしまう。
しかし、のちの自分自身が書いた当時の自分と、コンテクストを共有しているとは限らない。
むしろ、自己の精神世界には成長や変化があって当然であり、時間軸上の自分同士であってもローコンテクストであると考えるべきである。
自分だけの閉鎖的な環境で、その時点でのコンテクストを省略して思念を吐露しても、のちの世の自分自身には通用しないかも知れない。
少なくとも僕には、過去の自分と同一のコンテクストに留まってはいない自負がある。
いっぽうで、僕は悩み迷走する愚物でもあるので過去の自分を顧みる葛藤があり、その時に備えて、時間の経過でコンテクストの共有が乏しくなった自分自身に伝える努力を惜しんではならないのだ。
そのためには、たとえ冗長な表現を伴っても常に第三者に向けた意識を持って、拙い文章を綴らなければならない。