潜在的な「攘夷」感覚

「日本はとても美しい国です。礼儀正しく、素敵な人々で溢れています。しかし、同時に差別の酷い国です。」という要旨のコメントを、ユダヤ系米国人がSNSに書いていたのを読んだ。どうも日本での生活経験は無く、日本を観光旅行したことも無い人のようなので、伝聞情報による想像と偏見があるように思ったけれど、諸外国に比べたら礼儀と節度を重んじる日本の文化の根底に「根源的な差別をマインドセットされた日本人」が存在するような猜疑を喚起されてしまった。

「アメリカ人は、中国は嫌いだけど中国人とは友達になりやすく、日本は素敵だと思うけれど日本人は苦手」というコメントを見たことがあるけれど、きっと中国人の大陸的率直さに欧米人は共感しやすく、日本人の島国的迂遠さが理解し難いのだと思った。誰が言ったのか「大阪は面白い街だね、大阪人さえ居なければ」という言葉を思い出す。

日本人の島国的迂遠さというのは、「責任から逃げる」「リスクを懼れる」というところかも知れない。幕末に「攘夷」という無知蒙昧が産んだスローガンが非現実だと看破して幕府首脳は開国したけれど、これは「リスクを懼れる」賢明さだったと思う。同時に「開国」の正当性を国内に広める責任を果たせず、結果的に「攘夷」は「尊王」と結びついて倒幕パワーとなってしまった。実際に倒幕を果たした勢力が開国を進め、最終的に開国を既成事実化して「攘夷」の実行責任はウヤムヤとなった。「攘夷」という建前のリスクについて理解が広まり、「開国やむなし」という「本音」の生贄として徳川幕府が倒された構図だ。「リスクを懼れる」ことが賢明である場合は多いけれど、ただ懼れるのではなく、その正当性を承認させる「責任をとる」姿勢とセットでなければ、生贄となった徳川幕府のような存在が無かった場合にイノベーションは果たせず、破綻・崩壊の結果を招いてしまう。今日の平和な日本社会で指導層に出世するのが、減点主義に生き残った「リスクと責任をとらない」人たちだと思われるので、冒険主義的指導者を民衆が選んでしまう危険な時期を迎える可能性がある。

労働人口の減少で日本社会への外国人参加が増えてきた時、「根源的な差別をマインドセットされた日本人」の「攘夷」が目覚め顕在化して、日本社会は騒擾と混乱にまみれ、同時に国際世論の非難を浴びるかも知れない。