情報社会はメルカトル

これはメルカトル図法で描かれた世界地図に、実際の面積の国土を重ね合わせた図である。
球体である地球表面を便宜的に二次元で表現しているメルカトル図法は、赤道から南北に離れるほど拡大されるとは知っていたものの、考えていた以上にロシアやカナダ、グリーンランドの実寸が小さかったと気づかされる。

多くの選挙民は候補者と面識が無く、間接的な情報による印象によって投票先を決めていると考えられるから、選挙運動以外でも政治家の評判を左右しているのは、支持派と反対派の印象操作合戦だと言える。
間接情報に依存し印象操作の影響を受けるのは、社会の規模が大きいから仕方の無い事ではあるけれど、この「仕方の無さ」に、「メルカトル図法の世界地図」によってロシアやグリーンランドを過度に広大なものと認識してしまったような陥穽があるように思う。
メルカトル図法の世界地図は便宜上の「ひずみ」があると知っていても、僕のような粗忽な人間は地図を見慣れるうちに視覚情報に認識が影響されていたのと同様に、間接的情報でしか判断材料が無い場合、その情報から自分の思念の中に「印象」や「認識」が醸成される時に、情報に潜む「ひずみ」の存在を忘れている場合があると備えるべきではなかろうか。
「直感」と呼ぶ感覚的選択であっても論理化されていない何かしらの根拠があり、その根拠はほとんど間接情報に因るものだから、自らの「直感」にも吟味の余地は残されているものだ。
我を疑う。ゆえに我あり。
《加筆補足》
僕自身が自分に問いかける中で使う「メルカトル図法的思考」。
そもそも「メルカトル図法的思考」とは何かをアウトプットすることで、自分自身の認識を整理してみよう。
 
建設会社に勤務していた時期、法務局で公図を入手し立案するのだけれど、対象の土地の地型も面積も、公図という2次元データでほぼ正確に入手できた。名古屋市全域ぐらいの地図でも、ほぼ同様の結果が得られる。しかし、範囲を広げていくうちに、地面は本来平面ではなく球面なので、それを平面図にする場合の「ひずみ」が生じる。その最たるものが「メルカトル図法による世界地図」なのだ。一般的なメルカトル図法の世界地図では赤道を基準線とするので、赤道から南北に遠ざかるほど「ひずみ」が大きくなる。そうと知ってはいても、普段狭い範囲の地図を見慣れているので、世界地図に「ひずみ」があると知ってはいても、その「ひずみ」を過小評価する傾向にある。
 
我々の認識や判断のベースとなるのは、人生における経験や生活圏における体験である。友人を選ぶとか住む場所を決めるような場合には、そういうものから醸成された感情的選択でも問題は起きないけれど、国際問題や国内の政治経済など、対象のスケールが大きくなるとそれだけでは心許ない。狭い範囲で培われた認識や判断をより広い範囲に応用する場合には、注意が必要だと思うのだ。しかし問題を単純化したり抽象化して思考しようとすると、ついつい「狭い範囲で培われた認識や判断」に任せて「ひずみ」を残す傾向が(少なくとも僕には)多い。僕はこれを「メルカトル図法的思考」と呼ぶのである。
 
しかも、直接経験していない事案の間接情報の中には、信頼できないものが少なくない。歴史情報には勝者のバイアスがかかり、外国のものには翻訳者のバイアスがかかり、報道・著作物にも筆者のバイアスがかかっている。文字情報からバイアスを除くためには、数式を用いるか、プログラミング言語のような構造言語を用意しなければならないが、いっぽうで人は、感情の籠もらない文字情報には心を動かされない。さらに言語情報と視覚情報を有する漫画や映画のような情報媒体には、「見た目」という、情緒に多大な影響を及ぼすものがあって、これが個人差の大きいバイアスを生む。バイアスの個人差が大きいからこそ、似た感想を共有すると帰属意識が生まれるのだけれど。
 
人間の選択判断の本質が情緒感情であるならば、より一層「メルカトル図法的思考」を自覚する必要がある。