共感性原理主義

16世紀以降の近世哲学は、数学や科学の発展によって知り得た「疑い得ない存在」とキリスト教教義との矛盾に苦しんでいた。(と思う)
当時の教会は巨大な権力機関であり、科学に蒙昧な庶民は宗教に洗脳されている。そんな環境だから、科学的に実証不可能な神の存在の傍証を求めて思考しつつ、論理性が高まるとともに宗教的懐疑心が強くなっていっても、神を否定せず棚上げして、人間を幸福にする方法論を模索していった。(のだと思う。哲学に浅学なので、認識に誤謬があるかも)
ルネサンスから産業革命、先端科学の発展というものを担ってきた欧州諸国が21世紀となった今でもキリスト教国という、神と科学というアンビバレントを保持できる「合理主義」と、いっぽうで科学的発見とそこから導き出された定理を受け入れない「原理主義」を考えた時に、神と科学の共存において近世哲学が一定の役割を担ったのではないだろうか。
キリスト教国である欧米外交がダブルスタンダードであることも、この「合理主義」によって矛盾を矛盾としない便宜性心理を国として共有しているのではないかな。
ポル・ポト政権化のカンボジアで虐殺がおこなわれていることを、アメリカは情報機関の報告で把握していたのに、ポル・ポト政権を支持していた。カンボジアでの惨劇をアメリカのジャーナリズムが報じていたけれど、ベトナム戦争と違いアメリカ人が多く死傷しているわけではないから、ほとんどのアメリカ人はカンボジア人がどうなろうとアメリカが繁栄していれば構わないし、ソ連が支援するヘン・サムリンがポル・ポトに勝利することのほうが我慢できないので、政府のポル・ポト支持を容認していた。
当時の日本政府は今と同様にアメリカの子分だったし、国交正常化して間もない中国がポル・ポトを強力に支援していたから、ポル・ポト支持の立場をとっていた。日本のジャーナリズムもカンボジアでの虐殺を報道し、日本の外務省も現地の外交官からの報告でその事実を把握していた。野党は虐殺行為をおこなうポル・ポトを支持する政府を攻撃したけれど、政府答弁は虐殺の事実を肯定せず、否定でもない玉虫色に終始していた。
アメリカ政府「ポル・ポトは大量虐殺をおこなっているが、ソ連やベトナムとの対抗上、かつ中国共産党政権との友好関係維持が国益に寄与するので、ポルポト支持もやむなし」
アメリカ国民「いいんじゃねぇの、アメリカ万歳!」
日本政府「ポル・ポトが大量虐殺をおこなっているのか、カンボジアは内戦下にあり事実確認は困難であります」
日本国民「朝日新聞も読売新聞も大量虐殺があると書いてる。ほんとだったら許せないけど、そんな政権を日本政府が支持するのかなぁ…(そんなことより、これから彼女に逢いに行くのに雨になりそうで傘が無いほうが問題だ)」
日本政府がポル・ポトの大量虐殺行為を認めたのは、ポル・ポトが亡くなった後であった。
日本の外交は「お人好し」とか「性善説」とか言われるけれど、日本国民にダブルスタンダードの使い分けを許せない「共感性原理主義」があるからじゃないだろうか。
そして野党の政権批判は「共感性原理主義」を煽るポピュリズムだから、政府答弁は常に玉虫色となる。