我が永遠のオリオンズ

日本プロ野球、パシフィック・リーグのオリオンズを、そしてマリーンズになった今も、ずっと応援している。

まだ小学生の頃、父が経営していた小さな会社の社員旅行に連れて行ってもらい、東京観光をした。
日帰り旅行の最後に、後楽園球場の巨人中日戦を観戦したのだった。
父は巨人ファンだったけれど、後楽園球場の1塁側内野席を人数分確保できず、従業員を1塁側に座らせると、自分は僕を連れて3塁側の内野席に座った。
この時、売り子が売りに来た「選手名鑑」という手帳のような冊子を父に買ってもらったのだが、これが僕と東京オリオンズとの出会いとなった。

さて、この日のナイターはジャイアンツの先発が金田投手、中日ドラゴンズの先発は小川健太郎投手だった。
アンダースローの投手を見るのが生まれて初めてだったことと、この日の巨人打線がまったく小川投手を打てなかったことが印象的で、中日ドラゴンズについてあまり知らなかった僕はこの投手の名前を覚え、そして50年以上経った今でも覚えているのだ。
子どもの頃の印象というものは、生涯残るものだな。
たしか金田投手は中日ドラゴンズに打ち込まれて途中降板したと思うけれど、帰りの新幹線の時間の関係上、僕たちは試合終了まで球場にいることは出来なかった。
帰りの新幹線の中でイヤホンラジオを聞いていた従業員が、試合展開を社長(父)のもとに報告に来る。
「王が同点ホームランを打ちました」「長嶋が逆転ホームラン!」
新幹線の中で、父も従業員たちも歓喜していた。
世はまさにON時代であり、まるで作り物のように王や長嶋は活躍し、ヒーローになっていた。

この日買ってもらった選手名鑑が僕の宝物になり、毎日眺めたり球団旗の絵を描いたりしていた。
お気に入りの球団旗は、トリコロールカラーの「東京オリオンズ」。
「東京オリオンズ」という名前と、星をあしらった三色旗がなんとなくハイカラな感じがして気に入ってしまった。
当時は従業員の休憩室に置くために、スポーツニッポンと日刊スポーツを購読していたけれど、古新聞が捨てられる前に、僕は東京オリオンズの記事を集めた。

静岡県静岡市に暮らしていた僕の環境は、プロ野球と言えば読売巨人軍のファンばかりで、中日ドラゴンズファンも少しはいたけれど、今のように阪神タイガースファンなんていなかった。
昭和40年代のテレビでは毎日プロ野球中継があったけれど、主役はジャイアンツであり、脇役としてその他のセントラル・リーグのチームが出てきたけど、ジャイアンツが勝つのが当たり前で、ジャイアンツが負けようものなら、まるで大相撲で横綱が負けた時のように「番狂わせ」が起きたという騒ぎだった。

そんな環境だったので、テレビにも映らないし住民の話題にも上らないパシフィック・リーグの東京オリオンズに詳しい小学生は、とても奇妙な存在だったと思う。
でも僕は、大人たちが知らないことに詳しい自分を、とても誇りに思っていた。
当時の男の子はみんな野球帽をかぶっていたけれど、帽子屋で売っているのはYGマークのものばかりだった。
僕はそのYGマークを母親に頼んでアルファベットのTに付け替えてもらったり、そのうち「ロッテオリオンズ」となった時には、LとOの組み合わせは無理なので、Oのマークに付け替えてもらったりした。

今になって、当時どの選手が好きだったのかと思い返しても、印象に残ってはいない。
球場で見ることは無かったし、テレビに映る機会もほとんど無かったからだけど、強いて挙げるなら成田文男投手かな。
オールスターゲームに出ているのをテレビで見ながら、応援したことを覚えている。
その他はシュートボールの木樽投手、パームボールの小山投手。
木樽投手の読み方が解らなくて、大人から「きね」と誤って教わり、しばらくはそう呼んでいた。
テレビもラジオも無い時代、スポーツ新聞でオリオンズの記事を探し、むさぼり読んでいた。
球場でオリオンズを応援するのは、川崎球場がホームグランドになってからだった。
観客もまばらな川崎球場だったけど、それでもチケット売り場の前にダフ屋が居たものだ。
格安でチケット売っていたけれど、僕は球団を応援したいからと必ず正規のチケット売り場で買っていた。