肉体をまとった感情

人間とは、歓迎すべき感情を獲得するために、選択し行動する生き物なのだと僕は考える。
行動自体が目的ではなく、それによって得られる達成感、安心感、充足感など、欲求が満たされた時に起こる感情の獲得が目的なのだ。
これらの獲得したい感情、歓迎すべき感情を一纏めにして、「幸福感」と呼んでおく。
「幸福」とは、この幸福感を獲得している状態を指す。

感情には理由が無い。思考する以前に感情は生まれている。
よって、本質的な意味で人間の行動に理由など無い。
まず感情が存在し、その感情によって選択する行動や信条などを、正当化するために理由を作っているに過ぎない。
幼少期に培われた感情は、通常の人生体験では生涯変わらないものである。
思想も宗教も差別も、生み出したのも選択するのもまずは感情であり、支持したり反感を抱くのも、感情である。
感情の選択を補強するために、論理的思考が後を追う。

「感情に支配されない」「感情をコントロールする」というものは、他人に感情を悟られない処世術に過ぎない。
理論武装によって感情を積極的に正当化するか、感情を悟られないようにして正当化の必要性を消却してしまうか。
理論武装より簡便な方法だから、「感情をコントロールする」という方法論に利便性が生じているのだろう。
なお、「マインドコントロール」と呼ばれる他人の感情を支配する方法は、一種の催眠行為なのでこの論では除外する。

「俺は左翼だ」「お前は右翼だ」と主義主張が別れるのも、まず何を好むのかという感情が先に存在し、その感情を正当化するために理論武装し争うのだから、片方が片方を論破しても感情までは支配できない。
感情には理由が無いのだから、論理で変更を強いることは不可能なのだ。
人間に差別と抗争が絶えない原因も、論理(理性)では感情を支配できないからである。
むしろ感情をコントロール出来るのは、アンカリングやステルスマーケティングのような印象操作ではなかろうか。
そう考えると、選挙という民主主義のシステムで勝つためには、理論ではなく印象操作が重要だと気づく。

ともあれ、基本的に人間は感情の支配からは逃れられない。
否、人間とは肉体をまとった感情という存在なのである。

「存在と時間」で有名なドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーは、既に既婚者であったマールブルク大学の助教授時代に、ユダヤ系ドイツ人女子学生と恋に落ちるが、スキャンダルを恐れ一方的に彼女を捨てた。
捨てられた女子学生ハンナ・アーレントはやがてユダヤ人哲学者と結婚したが、ユダヤ人へ迫害が強まるドイツを逃れアメリカに渡った。
ハイデッガーはナチス党員となり、ヒトラーの思想的支柱の役目を果たす。
アーレントはアメリカで教鞭をとりながら政治哲学への造詣を深め、名著「全体主義の起源」を著す。
ナチスドイツ敗戦後、アーレントはアメリカ政府からの調査依頼を受け、荒廃したドイツを訪れた。
そして、そこで落ちぶれたハイデッガーと再会し、なんと昔の恋が再燃する。
この聡明な分析力で知られる女性思想家は、ハイデッガーの見え透いた嘘で固められた弁明を、丸ごと受け入れてしまうのだ。
晩年、アーレントはこの時のことを尋ねられてこう答えたという。

「嫌いな人の真実よりも、好きな人のうそがいい」

幸福になるためには、人間は感情に支配されたほうがよろしいようで。