人生における「保険」

「信仰」のどれが正しいかとか、どれもこれもナンセンスだとかは、客観的比較を観測して数学という共通言語で表せないから、人類が共有する情報とは永遠になり得ない。

僕の叔父は大新聞社の有能な経済部記者だったけれど、壮年で癌を発症し亡くなった。僕の知る彼は、唯物史観を持つ無神論者という印象だったが、死期が迫るなかで心の安寧を失い苦しんだと聞く。そんな状況の彼の救いとなったのが、看病する夫人の聖書朗読であったそうだ。
人の肉体が滅べば、その人の思念・認識も停止して無に帰すと信じて疑わない無神論者であっても、いざ自分の死に直面すると懊悩するものなのか、と当時は深く感じるものがあった。むしろ観念的に「死を担保する思い込み」を持った者のほうが、「死」に対していくぶん強いのかも知れない。
彼が聖書によっていくらかの安寧を得られたのは、クリスチャンの女性と結婚し共に暮らすなかで、少しずつキリスト教的な価値観を刷り込まれていて、弱った心がその「教え」に縋りつくことの出来る素地が育まれていたからだろう。それ以前から、日本におけるキリスト教がファッション的な価値として、彼の好みに近かったとは思う。彼の葬儀はキリスト教の教会でおこなわれ、ずっと叔父との接点が無かった僕は、彼がいつ洗礼を受けたのかも知らなかったけれど、たぶん入院してからだろうと思った。
死期の迫った人や、かけがえの無い大切な人を失って深い悲しみにある人の心に、少しでも安寧をもたらす力があるものならば、たとえそれが作り話であったとしても、僕は正しい「信仰」であると思う。それを受容できる素地を持つことは、人が人生で必ず何度か体験する深い悲しみや恐怖を和らげる、一種の「保険」なのだ。大切なのは、「保険」とは思わず信じることだけれど。

問題なのは、他の勢力と争う時の連帯システムとして、「信仰」を共有する「教団」や「宗教」という運命共同体を形成することだ。これによって「信仰」は人を救うものから人を滅ぼすものに変質する。
願わくば、地球人類が「宗教」を捨て、「信仰」に生きる生命体となって欲しい。