安倍晋三元首相殺害事件に思うこと

情報が溢れる社会になった現在はかえって解りやすい判断基準が求められるために、乱暴な象徴化やレッテル貼りによって、二極化に収斂する動きが生じやすい。政治家や経済人、芸能人やスポーツ選手に完全な「正義の人」もまったくの「悪人」も存在するはずは無いのに、全人格が肯定ないし否定される。安倍晋三さんを「殺してもいい人」と考える短慮が生まれた背景には、そういう時代の風潮があったのだろう。
田沼意次や井伊直弼が事実以上に悪者扱いされたのは、情報開示が少なく言論統制もあった時代の中で、庶民の噂話に尾ひれが付くことを次代の権力を狙う者が利用した面もあったけれど、「情報化社会」と言われる21世紀の日本でも、庶民の情報リテラシーは江戸時代からそれほど向上していないかも知れない。扇動的なコメントに乗せられて、無思慮に誹謗中傷の波に乗り身勝手な正義感に自己満足する者、そういう風潮に嫌気がさして情報の海に背を向け、波にのまれる者を見殺しにする者。
民主主義を守るということは、情報の海に身を投じ、波にのまれず、波に乗らない自己批判を保持し、社会と自分自身を直視することなのだと思う。