大衆の亜種

子供の頃からひとり遊びが好きだったけれど、寂しいのは嫌いだった。同じ屋根の下に家族が居ることを確認し、それで安心してひとり遊びに没頭していた。油粘土でいろいろ作ったり、画を描いたり、漫画や物語を読んでいたりして、ひとりの時間を満喫していた。イマジナリーフレンドが居たわけでもなく、ただただ自分ひとりの世界に耽溺していたように思う。

中学生になってからも、集団は苦手でありながら孤立するのも嫌だった。コミュニケーションが苦手だったせいもあるのだろう。コニュニケーションとは相手がこちらの希少性を認め尊重する態度でもないかぎり、「万人がそう思う」ことを多く共有することが必要条件であり、僕の通った中学校は、まさにそれが必要条件の環境だった。

まったく違う価値観の持ち主であったのなら、僕は特別な発想を育み孤高の天才になれたのかも知れないけれど、残念ながら僕の嗜好も発想も通俗的であり、その中で絶えず少数派に属してしまう価値観であったので、多様な価値観を認めようとするマクロ的な視点からは漏れて特別視はされず、十把一絡げの集団に分類されてそこで孤立してきた。

僕のような大衆の亜種は、真意を隠して多数派に迎合する処世術を身に付けるものだけれど、僕の自尊心はそれを許さず孤立を招く。亜種のままでは大衆に埋没して無自覚に得られる安心感も無く、さりとて大衆とは別格のエリートとなる才など持ってはいない。多数に属すことで得られる無自覚の安心感があれば肥大化せずに済む疎外感が大きくなってしまい、それが孤立感を高めてしまう。
そういう人生を送ってきたな。