「世界平和統一家庭連合」問題を考える

19世紀末から20世紀初頭にかけて、欧米(特に英国)では心霊現象を科学的に解明することに当代一流の学者や文化人が挑んでいた。「宗教」よりも「科学」が優勢となり、解放された探究心が「迷信」の打破に向かった結果、はからずも「信じがたいことだが事実である」(ウィリアム・クルックス/タリウム原子の発見者・クルックス管の発明者)、「そう、 これは不合理である。が、真実である」(シャルル・ロベール・リシェ/アナフィラキシーショックの研究で1913年ノーベル生理学医学賞・著書「心霊研究30年」において霊の物質化媒体をエクトプラズムと命名)という具合に、権威ある科学者がお墨付きを与えることとなった。自然科学を研究する者は唯物論的価値観に傾くのが自然ではあるが、西欧人である彼らの多くが家庭的社会的にキリスト教のドグマを幼少期から擦り込まれていたから、科学を探究して育まれた唯物論的価値観と幼少期に擦り込まれた信仰との相克を解決したかったのだろう。
彼らの研究活動は彼ら自身にとっても意外だった「本物」の存在を見出してしまったけれど、それ以上に多くの「偽物」を暴くことにもなった。もとより心霊研究はアポステリオリなものであり、アプリオリを求める科学のフレームには馴染まないから、一流科学者の「本物」認定は当時の科学界から顰蹙を買ういっぽうで、「偽物」とされたものの中には、庶民の精神を慰撫しカウンセリングとして有効なものもあり、心霊擁護派からの反発を受けた。当時流行していた心霊治療や交霊体験の多くが偽物であったとしても、信じさせる環境を用意して人を信じさせ、信じた者に対しては身体的・精神的な治癒効果を得ていたのであるから、一流の科学者による「偽物」認定は、庶民から救いを奪う行為に他ならなかったのである。
この事例から考えるに、客観的な真贋判定の価値よりも、信じた者が恩恵を得ている(と感じている)「信仰」のほうに価値があると言えるのかも知れない。であるならば、法外な金銭を貢ぐ行為であっても、信者にとっては貢いだ金銭以上の価値があると感じていれば問題ではない。この関係だけを捉えると、「信仰」には罪は無いと言える。「信仰」が問題となるのは「信者」の行動においてであり、社会が裁くべきは「信者」であろう。あらゆる宗教のドグマそのものには罪は無く、それを信じる者がそれを信じない者に不利益や被害を与える行動に罪がある。
そのように考察していくと、世界平和統一家庭連合という容器の破壊で終わらせるのではなく、信者個々の罪に対して罰を与えなければならない。思想信条や信教の自由は権利として社会的に保障されるべきであるが、その権利行使が他者に被害を及ぼした具体的事案が提訴されたら、被害者をただちに保護し加害者を特定して裁ける社会とならなければいけない。