神道とは宗教と呼ぶには素朴すぎる汎霊思想であり、汎神思想のため、唯一神思想のような絶対的な価値観が存在しない。古代天皇は神に祟られる民衆の代表として神を畏れ敬う祭主であり、有史以降はシャーマンとしての地位を持っていないから、豪族や民衆と同様に神を畏れ惑う立場だった。そのため仏教伝来後は経典というマニュアルがある仏教に帰依して国家の安寧を求め、寺院や大仏などの建立に国費を削った。民衆が飢餓や疫病に苦しんでも絶対権力者の富貴が保たれていれば満足するのが「王権」の常なのに、それでは神に祟られるとしてそれを畏れ、神に祈りつつも仏法に救いを求め、それでも旧来の神道を排し仏教国とならなかったところが興味深い。
ローマ帝国においてコンスタンティヌス1世によりキリスト教が国教となったのは、その唯一神思想の絶対的価値観が専制政治に利用しやすかったためであり、以降のキリスト教がローマ皇帝の影響下で宗教会議を繰り返し、専制君主制を補佐する性質を色濃くしていったことを考えると、仏教は神道同様に汎霊思想であったから、両立しやすく習合しやい性質だったのだろう。スピリチュアルな面を削ぎ落とした実践哲学として伝来した儒教(孔孟思想)は、神仏習合の信仰環境との矛盾を起こさず、知識階級であった貴族から普及していった。いっぽうの道教(老荘思想)はスピリチュアルな性質が強い古代中国の民俗信仰との習合要素が色濃かったために、渡来人居住区以外では広まっていない。ただ、老荘思想も知識人には蓄えられ教養として拡散していったので、文化芸術への影響にその痕跡は認められる。
儒教よる倫理教育が宮中に普及するとともに、「孝」という価値観が天皇が先代以前のまだ生存し霊となっていない元天皇(上皇)に逆らえない環境を整え、上皇の宮殿である院の地位が高まり、やがては「院政」として一部の特権貴族が独占していた政権を奪う。
それ以前、律令体制が整うのと並行して軍制が整備されていく中で、天皇は個人的意向のもとに強大な軍事力を行使する権限を奪われていく。軍事力発動は朝議という朝廷会議の決定が必要となり、天皇は朝議の司会進行役でも議長でもなく、時として自分の意向を疑問の形で諮問しても公式に個人的意向を表明することは稀であり、稀に自分の意向を政権に反映しようと試みる天皇は、多くの場合特権貴族によって失脚させられた。
特権貴族は自分たちがコントロールできる天皇を望み、コントロールにおいて「孝」の価値観が効果を発揮する天皇外祖父の立場を得ようと、娘を天皇に嫁がせ男子の誕生を喜んだ。皇統を男系男子に限る思想も、時の権力者が決める天皇の正当性を担保する必要から、皇統の乱立を防ぐ目的で生まれたものかも知れない。
天皇を護衛する軍事力は必要最低限であり、貴族や寺院が所有する荘園の、警護と徴税を任せていた地方豪族の武力のほうがはるかに強力だったから、実質的に特権貴族政権の権力は天皇の権力を凌駕していた。稀に既存の特権貴族に対抗する手段として、有能な僧侶や官僚を抜擢しても、特権貴族によって失脚の憂き目を見る。そして院政が始まると、北面の武士などの制度が生まれ、院政の軍事力が特権階級貴族の軍事力を上回り、権力は院政に移行する。しかし軍事力とは本来、軍事指導者の元に結集する性格を有するので、権力は院政から平氏、そして源氏以降の幕府政権に移行していく。
このように整理していくと、日本では国家権威(天皇)と国家権力(有力豪族→特権貴族→武家政権)が古代から分離していたと考えることができる。極論すれば、権力が特定の勢力か民主選挙の勝者にあるのかの違いこそあれ、明治憲法よりもむしろ現行憲法での天皇の地位(象徴=権威)のほうが、古来からの天皇の立場に近い。
世界史的に一般化している「王権」のイメージで天皇制を見る史観は違うように思うし、二千年余ずっと同じ政権によって統治されてきたと誇る史観も間違っていると思う。皇室は「王朝」ではなく、最古の歴史を持つ血族的「祭主」であった、と僕は考える。
それが大切であるかどうかは、個人の自由だと思う。僕は唯物論と論戦したら勝ち目が無いのに譲れない汎霊思想を持っているので、神道を否定しない。
できれば憲法の規定から天皇という地位を外し、皇室が国家予算で富貴な生活を保証された特権階級と国民に思われ好奇の目から監視される立場から解放され、支持する国民の寄付と国会によって認められた私有財産の運用によって、宮中祭祀を日本の大切な伝統として守っていく、法的に政治利用を禁じられた「日本最高位の祭主」の家系として永続することを望む。