プラトン著「クリトン」

プラトンが著した「クリトン」の邦訳があったので読んでみた。
死刑執行が近づいたソクラテスに、親友のクリトンが獄舎を訪れ逃亡を勧める。
看守は買収可能であり、アテネから逃亡したあとの生活の保障も準備できているとクリトンは告げる。加えて、アテネ市民には、ソクラテスの死を惜しむ世論も起きつつあると言う。
民衆から選ばれた陪審員によって死刑宣告を受けたソクラテスは、「大衆というのは、たいした考えもなく人々を死に追いやるかと思えば、できることなら生き返らせたいなんて平気で思うような人たちのことを指す」と看破し、大衆世論などはじめから論外だと言う。
大衆に倫理を説き、論敵と戦ってきた人生に誇りを持つソクラテスにとって、遷ろいやすい世論が下した判決とは言え、一度下された判決に逆らう行為は自らの倫理観にもとる行動であり、論敵にも芽生えた自らへの尊敬の念を失わせるものであろう。
「老い先短い身で、もっと長生きしたいなどというみじめな欲望に執着して、もっとも神聖たるべき国法を、恥ずかしげもなく踏みにじったことを思い出させる」という余生を恐れるのは、逃亡によって自己肯定感が喪われ、そんな余生に幸福など無いと観念したのだと思う。
制度的には大衆に裁かれたソクラテスだけれど、ソクラテス自身は自らを裁けるのは自分自身だけだと考え、それを執行するために逃亡よりも死刑を選択した、と感じた。

ロシアのプーチンにはプーチンの「正義」があり、イスラエルや北朝鮮の主導者にも彼らの「正義」はある。
と考えると、所詮「正義」などと言うものは、主導者や支配者が自己肯定感を保つための方便に過ぎないのだな。そんな思いが「クリトン」を読んて湧いてきた。
普遍的な自然法則や共有しやすい倫理観は「自己」を規定するには広汎過ぎるから、自己肯定には「ある種の偏り」が必要かも知れない。そしてその「ある種の偏り」は、異なる「偏り」との間で議論の成立を阻害するだろう。
自由に発言できる社会となっても、議論の成立を妨げるこの「ある種の偏り」がエコーチェンバーを起こして社会を分断していくのかと、その後のキリスト教社会よりは自由に発言できたであろう古代ギリシャ民主制における、ひとりの哲学者の死に際を読んでみて思った。