中居・フジテレビ案件を「芸能ゴシップ」とみなして関心から外す人もいるけれど、権力勾配とか立場の強弱が生む隷属圧力や保身願望などを含む、当事者主観の同調や憶測によって構成される「客観的証拠のない社会システム」が、芸能関連記事として注目されたものだと思う。
おそらくテレビ局を含む芸能界に、客観的な証拠のある「性上納システム」など存在しない。
客観的実績(人気・視聴率)を持つ芸能人はテレビ局も芸能事務所も気を使う存在であり、そういう芸能人と良好な人間関係を構築できたプロモーターやプロデューサーも、二次的に客観的実績を持っていることになる。いっぽうで客観的実績を持たない芸能人やテレビ局社員が実績を作る機会を得るためには、プロモーターやプロデューサーの主観に頼ることになるけれど、オーディションやコンクールで見出される才能は限られており、好機を求めて権限のある者と親密な人間関係を作ろうとする。
一般的なサラリーマンでも休日に家族を犠牲にする「接待ゴルフ」などがあるのだから、女性の美貌や性的魅力が商品力である芸能界において、その「接待」に性的な要素が含まれるのは当然だろう。そういう接待が一種のハニートラップとなって女性の立場を強化することは、なにも芸能界に限ったことではないので、自発的に「枕営業」に勤しむ女性もいるだろうし、不本意ながら強要される被害者もいるだろう。
何を言いたいのかと言うと、卑近な例として挙げた「休日の自由」とか「性の自由」などの個人の権利が、立場の弱さゆえに上納せざるを得ない権力勾配や暗黙の同調圧力が我々の社会に根づいてしまっていて、それを客観的証拠主義の論理では排除しきれないというジレンマなのだ。
ほんとうは弱い立場ゆえに強奪された「自由」なのに、形の上では自発的に捧げた「自由」にされてしまう社会であり、「自由を捧げた」ということが強い立場の者の支配欲を満たし、隷属関係が確認され保身・出世ができてしまう社会を、なんとか変えたいものだ。