ヤラセが作る安心な世界

まだ僕が幼かった頃、父はプロレスの招待券をもらったけれど、母が僕を連れて行くのを嫌がったので、父は父の兄弟とプロレスを観に行き、以後「プロレスなんて八百長だ」と言ってテレビでも見なくなった。
今にして思えば、力道山亡き後の低迷期だっただろうし、テレビ中継も無い地方都市での巡業は、消化試合的で内容もダレていたのだろう。現在に比べると当時は技の種類も少なく、レスラーの演技力も不足していて説得力が乏しかったのだと思う。
それでも僕ら田舎の少年プロレスファンは、4の字固めなどを実演してみてその苦痛を体験し、機会のある者はマットの硬さを確認して、プロレスラーの忍耐力や技の危険性を実感していたから、そういうものを観客に見せるために、技をかけられないように避ける「格闘術の合理性」を敢えて捨てて、プロレスラーたちは勝負しているのだと信じていた。
2001年に『流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである』という書籍が出て、「プロレスの興業においては、絶対的な権限を持っているマッチメイカーがカード編成と勝敗を決めている」という内幕が暴露され、疑いながらも心のどこかで信じ続けていた信仰が消え去った。その後、大相撲でもいくつかの暴露本が出版されて八百長が告発され、八百長が減った今では、大関から平幕まで落ちる力士が多くなった。
テレビ界では「お笑い頭の体操」とか「笑点」での出演者の解答が台本どおりと暴露され、漫才でビートたけしが『川口浩探検隊』のヤラセを茶化し、テレビが映す虚構が次々と暴かれていった。大衆の猜疑心は都市伝説や陰謀論を否定しきれなくなり、そんな大衆よりは優秀なはずの頭脳の持ち主が、新興宗教にどっぷり浸かって凶悪犯罪に手を染めたりもした。
関係者には知れ渡っていたジャニーズ問題がようやく裁かれ、テレビ局という虚構生産基地の実態が暴かれようとしているから、裏取引による虚構がもたらす「安定」を大衆が信じていた時代より、いくぶん正直な世界になっていくのかも知れない。
しかし、その正直さが招く不安定さは、はたして幸福なのかどうか。虚構を信じて疑わない蒙昧な人間のほうが、大過なく人生を終えているのが人類の歴史なのだ。