「平和」とは何か

ミャンマーの民主主義が脆くも軍隊に潰され、軍政による弾圧と暴力を目の当たりにして、胸に去来したことを書いてみる。

「理性」とは通貨のようなもので、それが通用するためにはリテラシーの共有が必要となる。それでも通貨のリテラシーは、地球人類共通の欲望が後押しして普及促進されたけれど、「理性」は欲望を抑制する働きでもあるから、そのリテラシーを広めることにブレーキをかける性質を地球人類自体が持っている。
地球人類をコントロールする手段は、恐怖と欲望を道具とすることだろう。法治主義を機能させるためには、「違法行為に対する罰(恐怖)」と「順法行為に対する褒賞(欲望)」を制度化することが必要であり、理性に頼っていたら法治は成立しないものなのだ。
地球人類が理性的生物なら、そもそも法律は無用だろう。そして法治を担保するのも「理性」ではなく「権力」であり、権力を担保するものは「武力(暴力)」なのだ。
「平和」とは、戦争への恐怖が征服欲や闘争心より勝っている一時期、恐怖によって地球人類がコントロールされている状態を呼ぶ名称に過ぎない。
暴力の被害に遭わない側、暴力を与える側にとっては、暴力が横行していてもそれが「平和」なのだ。

平和を欲さば戦争に備えよ。― 古代ローマの格言
平和を望むなら戦争を理解せよ。ベイジル・リデル=ハート