民間ファシズムの根付く国

ドラマや映画で、太平洋戦争当時の日本では英語が「敵性語」として使用を制限されていたという描写があるけれど、当時そういう法律や布告があった訳でもなく、政府や軍部の書類では英語の使用は制限されていなかった。対英米戦争が始まり、国民に英語教育廃止論が起きて国会でも要求があった時に、時の東条英機首相は「英語教育は戦争に必要である」と突っぱねている。
「敵性語」という考えは、朝日新聞あたりが言い出して国民を煽り、国会の民選議員が人気取りのためにそれに乗っかって広まったと考えられる。そもそも「敵の文字は使わない」と言い出したら、日米開戦以前から中国とは戦争をしていたのだから、漢字やそれに由来する仮名も使えなくなって、日本は文字を失ってしまう。そんな愚かな考え方だ。それでも、「敵性語だから使えない」という同調圧力に忖度して、あらゆる分野の用語で英語が漢字和名に置き換えられていった。
このように、「敵性語」という感情的排他思想は、国家主導ではなく民間から起きたものなのだ。そこに江戸期から明治維新を経て国民に根付いた「民間ファシズム」の存在を感じるし、戦後の社会でも個人的に「同調圧力」を頻繁に体験してきた。現在でも「マスク警察」のような、ボランティア的ファシズムが存在している。
外国のように外出禁止令も出さず、コロナ対策が「国民への依頼」であるのは、日本国民の民度が高いからと言うよりも、いまだに民間ファシズムが残る危険な国だから、その程度にしておくべきなのかも知れない。