岬とおる作品集
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岬とおるとともに青春を歩んだ人たちが、それぞれの想い出を書いています。

岬とおる(大学時代のスナップ)

岬とおるとともに青春を歩んだ人たちが、それぞれの想い出を書いています。

岬とおる回顧録
青春のカケラ達

岬とおるとの出会いは、僕が文芸誌を発刊しようとしていた高校一年の時だった。
既に彼は別の漫画専門誌にデビューを果たしていて、僕の文芸誌の表紙を飾って欲しいほどの魅力を放つ画風を持っていた。
岬とおるの画風に魅了された僕は、幸いにも同じ大学に入学し、さらに同じサークルにも在籍した。
当時の僕の願いは、彼の優しい繊細な画風を全面的に展開した文芸誌を発行することだった。
彼が高校時代で発表していた作品はメルヘン色の強いもので、それを活かすために僕は「童話」を選び、雑誌名を「チロンヌップ」とした。
幸い優秀な書き手はサークルに存在し、文芸誌は毎号10作程度の童話集だった。
誌面は見開き4段に必ず彼の挿絵が入るという構成にしたため、毎号25枚以上の挿絵が必要で彼の負担が一番大きかった。
締切り前になると彼のアパートで版下作りと作画を並行作業を行い、ほぼ徹夜だったことが懐かしい。
彼の魔法の左手にかかれば、期待を上回る出来栄えで、岬とおる色が全面に展開された大満足の一冊が生まれるのだった。
僕にしてみれば、岬とおると共同で創作できることが最大の喜びであった。
「チロンヌップ」は大学4年間で4号発刊したが、号を重ねるごとに彼は上手くなっていった。
大学卒業間際の最後に編纂したのは、サークル内の伝説の女流作家であった「いどゆりあ」の作品集だった。
30枚の新作挿絵を描きあげ、最期まで徹夜の作業となった。
大学卒業後は、岬とおるは東京に就職し、僕は地元に帰ったが、3年後に彼が地元に転勤となったため、再び交流が始まった。
その頃、僕は「結婚式のプロフィールパンフレット」の制作を依頼されることも時々あり、岬とおるに相当協力してもらったことも多かった。
彼が生きていれば、今の年齢やこの時代でなければ出来なかった方法で、岬とおるを世に出すことができたかもしれないのが、残念で悔しくて仕方ない。
ネット社会の中、繊細で儚く健気な画風は、人気を博したであろう。
彼の才能を十分に世に問えなかったが惜しまれる。
彼は自分の才能に気づいていたのだろうか?
岬とおるが、本当に表現したかったことを支援したかった。
今、僕が大切に思うことは、夢中で取り組んだ時間を共有できたことだ。
センチメンタルな作風の僕と彼とは相性が良かったのだと思う。
寡作作家の才能を僅かでも引き出せたと自負しているし、僕の創作活動に華を添えてくれた人であり、僕の人生に彩りを与えてくれた人でもあったと確信する。
「1日だけもう一度、岬とおると過ごせるとしたら」と問われたら、僕は懐かしき青春のカケラ達の話をし、新作を見てみたい。

柴田博之

岬とおる回顧録
出会いと別れ

僕が岬とおると初めて出会ったのは、お互いに中学1年の時、僕が所属する静岡市立大里中野球部に、彼が三島北中から転校してきて体験入部した時だった。その時は彼が正式入部せずに去っていったので、ろくに言葉も交わすこともなく、その後校内で出会った記憶も無い。なにしろ1学年14クラス、全校生徒3000人というマンモス中学だったからね。
中学3年の時に授業の一環として「漫画創作クラブ」が作られ、そこで僕は岬とおると再会した。野球部を1年で退部した僕は野球の漫画家になろうと決意していて、同じく漫画家志望だという彼と意気投合した。
奇しくも同じ高校に進学した僕らは、迷わず漫画研究同好会に入部した。そして、高校1年の夏休みに四谷公会堂で開催された「第2回まんが大会(コミックマーケットの前身)」に参加し、漫画同人誌という存在におおいに触発され、自分たちも漫画同人誌を作ろうと決意した。
岬とおるは高校1年の時に文芸同人誌の創刊を目論む柴田君と出会い、ふたりは編集者と挿絵画家として、強力なコンビとなっていく。この出会いが岬とおるの画風に大きな変化を与えた。彼の作画はやがて、コミックス志向ではなくイラストレーションとしての趣があるものに発展していく。作画を「文字」に例えて言うならば、僕は量産に向くフォント作りに勤しみ、岬とおるは書道家のように「文字」そのものに命を吹き込むような方向性となっていった。
僕と岬とおると柴田君は、同じ大学に進学した。岬とおるよりも学年順位の下だった者が浜松医大に進んでいるので、岬とおるの学業成績に見合った大学ではなかったと思うけれど、浪人が許されない家庭の事情があったのだと思う。
僕は岬とおるや柴田君とは別のキャンパスだったけれど、岬とおるを通じて柴田君とも親しくしてもらえるようになっていたので、ふたりを慕って彼らのキャンパスに行くことが頻繁となっていき、追波荘にも出入りするようになっていった。
社会人となってから交際は途絶えたけれど、そんななかでも僕の結婚式に出てくれた岬とおるが、新幹線のホームでエールを切り、大学の校歌を歌ってくれたことを鮮明に覚えている。しかし、その後は再び没交渉となって、長い時間が過ぎていった。
還暦を迎え、かつての旧友を尋ね始めたのだけれど、岬とおるの消息だけが分からなかった。僕よりは長く親交のあった柴田君でさえも、知らないと言う。僕は高校時代の漫研の先輩(岬とおるの兄と同級生)に連絡をとり、お兄さんの線から辿ろうとして驚かされることになる。
お兄さんは急死されていて、更に弟である岬とおるはそれより以前に亡くなっていたのだった。先輩に無理を頼んで、岬とおるの眠る墓の所在地をお兄さんの遺族に尋ねてもらった。
両親と兄、4人家族だった岬とおるは、静岡市内の富士山の見える丘にある墓所で、家族とともに眠っている。彼は持病のためか家庭を持たなかったので、今はもう、彼の晩年の様子を知ることは出来ない。こんな別れになるとは、思ってもみなかったよ。
僕はプロの漫画家にはなれなかったけれど、今でも性懲りもなく漫画を描いている。この創作意欲の原点は、その昔、岬とおるが僕に与えてくれた数多くの刺激なのだ。ほんとうに、ありがとう。

鈴木淳司