「価値」と「意味」を司る主観

僕がFacebookに投稿した記事への他者からのコメントに、「客観的価値」「主観的価値」という文言が使われていた。ここでは、このFacebookでの議論とは別に、そもそも「価値」ってなんだろうという素朴な思いから思索をすすめてみようと思う。
僕がこのコメントで使われている文言に違和感を感じたのは、僕の持つ「価値」という言葉に対する僕自身の印象に他ならない。主張に用いられている字句について意味論や解釈論を持ち出すのは、議論の主題から逸脱する。用語の揚げ足取りは議論を破滅させる(少なくない体験談)。よって、場所を変えたこのブログで気ままに書きすすめながら、僕自身が内的に解決したい問題とは何かを追求し、できれば結論まで行きつきたい。
ではここで、無断で申し訳無いながら、発端となったコメントを転載する。

私は、「しごと」には3種類あると思います。
A.「客観的価値」を生み出すもの(製造業とか、運輸とか)
B.「主観的価値」を生み出すもの(芸術とか宗教とか風俗とか)
C.価値を生み出さないもの(詐欺、窃盗、FXとか)
A,Bは産業ですが、Cは何も産まないので産業ではなく、そのためいかに従事者の生活がかかっていても、やはりいらないものはいらないと思います。
私はCに賭博や占い、スピリチュアル等の新宗教や韓国政府がやる無意味な公共事業も入れたいと思っています。
価値を産まないものはやっぱりいらないです。
パチンコは「楽しみ」という主観的価値を生んでいるのか、または「勝つつもりで負けている」という価値を生むフリをして生んでいないのか、意見の分かれるところと思います。
※Aを実業、Bを仮業、Cを非産業と分けるとわかりやすいかなと思います。(以前ソフトバンクは財界から「実業ではなく虚業だ」と言われていました)

このコメント自体への意見をここには書かない。これは尊重されるべき個人の主張であり、これが投稿されたFacebookの僕のスレッドで、僕は既に意見の応酬を済ませている。僕のスレッドは、議論して統一見解を出すために存在しているわけではない。僕が僕の主張を書き、異論のある人がコメントを寄せる。時にはそれが僕を啓蒙する場合もあるし、多くの場合、僕とは相容れない多様な価値観の存在を知る。それもまた僕にとっては、とても大切な体験なのだ。
さて本題に戻そう。
上掲のコメントで用いられている「客観的価値」と「主観的価値」という言葉。恐らくコメントの筆者は経済学などで用いられる「効用価値」とか「労働価値」と同じく、情緒的な意味を排した言葉として「価値」という字句を使っていると推察する。そして物質を産み出す活動が持つ価値を「客観的価値」、物質ではないものを産み出す活動が持つ価値を「主観的価値」と呼んでいると解釈した。
このコメントの筆者は、「客観的価値」であれ「主観的価値」であれ、「価値」を産むものが「産業」であり、「価値」を産まないものは「産業」ではない、と定義している。価値を産まない「非産業」の例として、詐欺、窃盗、賭博、占い、新奥宗教を挙げている。
僕の違和感の根源はここにあった。活動の結果として生じる事象に「価値」があるのか無いのかを決めているのは、実はコメント筆者自身の情緒的価値観ではないのかな。
例えば「詐欺産業」などという言葉を聞いたことは無いけれど、詐欺行為には詐欺を働く者の労力が注がれ、詐欺の成功報酬として詐欺犯は対価を得る。これは不法行為ではあるが「価値」を創造する活動ではないだろうか。
これを不法行為による不正なものだから「価値」ではないとするのならば、このコメントで用いられている「価値」という言葉の性質は、情緒的な意味を排した言葉としての地位を失い、すべてコメント筆者自身の思考の中にある値打ちの序列に帰納してしまう。「客観的価値」と「主観的価値」という分類で始まったコメントであったのに、すべての「価値」はコメント筆者の「主観的価値」に帰一するのである。(やはり揚げ足取りになってしまったか)
単なる揚げ足取りに終わりたくないので、僕なりの結論を得たいがために続ける。
「価値」という言葉を文章に用いる時、その「価値」の判断主体は文章の筆者であると考える。これは「意味」という言葉を用いる場合と同様だ。どちらの言葉も、これを用いて文章を書いている筆者自身の裁量によって推量されている。
極端な例を挙げるならば、どのように客観的な表現に努めても「無価値」「無意味」という極論に導いた時の「無」には、筆者独自の主観の色が隠せないからである。したがって「価値が無い」「意味が無い」と書く場合には常に情緒的決断であると断言し、客観性をそこに求めることは難しいのだと自戒しておこう。
逆説的に言えば、客観的に、万物には常に「価値」が存在し「意味」が存在するのである。それを「有」とするか「無」とするかは個人の自由であり、それこそが「主観」なのだ。