鳥山明さんの思い出

「思い出」と言っても、直接に交際があったわけでもなく、会ったことも無い。
僕がボウリング場チェーンの執行役員をしていた2015年頃、当時僕の住んでいた清須市で印象的な建築物を見かけた。
それが鳥山明さんのバード・スタジオだと解り、オーナー(当時は社長兼務)との雑談でその話題を出したところ、「ボウリング場の壁に何か描いてもらえ」と無茶振りされた。
オーナーの友人がかつて米国内で、スヌーピーの作者であるチャールズ・モンロー・シュルツに会った時、気軽に作画してもらった経験があったようで、漫画家とは頼めばなんとかなるものだと考えているようだった。
法人として集英社経由でオファーを出せば、すごい金額になってしまう。直接交渉することで、そこを節約しようというのである。郷土愛から、地元のボウリング場に作画を提供するだろうという読みもあったようだ。
しかしである、鳥山明さんの作品モニュメントを、彼の出身地で見たことがない。僕の子供は地元の公立中学に通っていたけれど、スタジオの建物を見つけるまで鳥山明さんが居るという意識も無かった。彼が話題になることが、地元では無かったのである。
個人的にコネがあるわけでもないので、清須市の行政などに取材して「取っ掛かり」を探すことにした。かつて担当していた大型ボウリング場を「世界最大」としてギネスブックに載せる際に、地元市長や医師会長に協力してもらったことがあるので、とりあえず行政から接近しようと考えたのである。
しかし行政側から「鳥山さんには接近しないで欲しい」と言われてしまった。ずっと以前に何かトラブルがあったらしく、刺激しないで欲しいということだった。清須市や愛知県にとって高額納税者である鳥山さんが、仕事に便利な東京に移転してしまわないように、空港までの道路を作ったという都市伝説さえあった。たしかに清須市から小牧市の空港まで、地元では「空港道路」と呼ばれる道路がある。
鳥山さんは人見知りな性格だと云うし、家族との食事も居住区から遠い場所を敢えて選んでいる、という噂もあった。「ドラゴンボール」や「ドラゴンクエスト」で世界的な漫画家・イラストレーターとなっている人でもあり、正規のルートでオファーを出しても相手にされない可能性もあるため、僕はオーナー命令をあやふやにして逃げつつ、ほとぼりの冷めることを待つことにしたのであった。
今年の1月に、清須市は「市制20周年記念」のロゴを《ダメ元》で鳥山さんにオファーしたところ(集英社経由で)、奇跡的に描いてもらえたようである。地元への貢献は初めてなんじゃないだろうか。

3月8日、僕が66歳となった日に、鳥山明さんの訃報が公表された。3月1日に68歳で亡くなったそうである。亡くなる直前に、地元に「市制20周年」記念ロゴを提供できたのも、奇遇だと思えなくもない。
あと一ヶ月ちょっとで69歳だった彼は、僕よりも3歳上、学年では2年先輩である。同世代で漫画を描いていた者の中では、いちばんの成功者だろう。僕は彼の単行本を一冊も買ったことがない。妬ましいほどに巧い作画力に、影響されることを避けたかったこともある。大友克洋さんと並んで、僕ら世代の『作画力の巨人』だった。
ご冥福をお祈りします。