言語化し整理し公開する行為

このブログは2017年12月9日の記事を最後に更新されていない。
最後の記事は「苦しみから逃れるということ」と「本当の幸せとは何か」という題名の文章となっている。このブログの筆者は統合失調症に罹患したことを認め、思考障害を自覚しつつ、それを受け入れて生きていこうと藻掻いていた。更新が途絶えたこのブログの筆者が現在どうしているのかを知るすべは無いけれど、ブログからは誠実で心優しい人柄が伝わってくる。
僕の経験でも、統合失調症の人の妄想や幻覚・幻聴は、「さすがにそれは無いよ」と言いたくなるほどの被害妄想であったりする。しかし当の本人は嘘をついているわけではなく、本人には実際に見えるもの・聞こえるものなのだ。
統合失調症の人の大半は、自分が嘘偽りを言っているわけではないので、自分の知覚経験を妄想・幻覚・幻聴だと決めつけられると、心が傷つき否定されることを認め難い気分になる。だからこのブログの筆者が他者からの「精神の病」という見解を受け入れたことは珍しく、勇気ある決意だと思う。自分の知覚が一般の人と同じになる方法を真摯に追求しつつも、行間に諦念が滲んでいることが悲しい。
このブログにも書かれている筆者の見た幻影とそれに対する考察には、それを知覚できない者に不可知な領域の一端を示しているような神秘的な気配を感じる。一般の人にとって幻聴とか幻覚とか妄想だと思えるものであっても、それを感受できない者が簡単に笑い飛ばすことは不遜かも知れない、と思わせる内容のある記述がこのブログにはある。

僕の若い頃の漫画仲間の中にも、あきらかに統合失調症の陽性症状を示し、家族からも奇異に思われている人がいる。隣人がハッキングしているとか、NTTが自宅のPCに不法アクセスしてデータを消去したとか、自分の生命を奪おうと相談している謎の声が聞こえるとか、家族が持て余しても当然だろうと思われる被害妄想を彼は主張する。
彼もまた正直で誠実で心優しい人物なので、古くからの友としてはとても悲しいのだけれど、彼自身はその認識に絶対の自信を持っている。たとえ合理的に否定し得る内容であっても、彼の知覚器官はそれを感受しているのだから、それを共有できないことが寂しい。

ずっと昔、中島みゆきのヒット曲などに対して、「自分が作った歌を盗まれた」とネットに書いている人がいた。駿河学(笑福亭鶴瓶)さんを介して歌を盗まれたと主張し、直接会って抗議した顛末も書いていた。当時はそれを被害妄想だと一笑に付していたけれど、長い人生経験のなかで「こんな事までするんだ」とか「こんな人がほんとうに居るんだ」という経験を重ね、権力や財力によって被害妄想の烙印を押されて闇に葬られることもあると知ってくると、都市伝説的な噂話が笑い話ではない場合もあり得ると思えてくる。
だから、突飛な被害妄想だと煙たがられるものであっても、証拠が無いなら実名を避けつつ、ブログに書いてみるのはいいかも知れない。たとえ統合失調症だと診断された人であっても、自分には聞こえるのだし、見えるのだから、不特定の誰かに宛てた手紙を書くように文章で説明を試みる。(公開する以上、実名は避けておくべきだけど)
言語化して整理し公開してみる行為の価値を、僕は前述のブログから感じた。