善意と善行

新型コロナウィルスによる肺炎が地球を覆う勢いである。
東京オリンピックの開催を危ぶむ声も聞かれるし、既に観光業やレジャー産業は大打撃を受けつつある。
そんな折、姫路市に住む妹からコロナウィルスに対しての予防策や治療法がLINEで送られてきた。
内容は「お湯を飲むと予防できる」という類いの、巷間に錯綜しているデマ情報と同じであったが、情報源が姫路医療センター呼吸器外科医師の奥様であるということで、姫路のママ友コミュニティで拡がったもののようだ。
こういうデマ情報が拡がる条件として、情報源とされる人物の「権威」が情報の正確さを担保しているというものがある。
情報の内容以上に、情報の正確さを保証するような「権威」情報の捏造こそが最も罪深いデマである。
今回のデマで名前を使われた、姫路医療センター呼吸器外科の医師こそ、いい迷惑であっただろうし被害者でもある。
こういうデマを信じてしまう背景には、不安から解放されたくて「信じたい」という願望が潜在しているところに、割合と身近な存在の「権威」が情報の裏付けとなっていて、「権威」の在り処が身近なだけに「誰かが確認済みなのだろう」という思い込みがあったと想像できる。
そして、若干の顕示欲を伴いつつも親しい人の助けとならんとする「善意」が、情報を拡散してしまったのだろう。
デマを有益な情報と信じて共有しようとする動機が「善意」であることは間違いない。
ここで二つの格言を思い出す。

The road to hell is paved with good intentions.
「地獄への道は善意で敷き詰められている」
Hell is full of good meanings, but heaven is full of good works.
「地獄は善意で満ちているが、天国は善行で満ちている」

人類がおこなってきた「悪行」のほとんどの動機は、皮肉なことに「善意」だったりする。
動機が「善意」であった場合、その行動を事前に阻止することは出来ない。
また、結果的に好ましくない結果を産んだとしても、動機が「善意」の場合には心情的に責められないことが多いので、反省も無く再発を防ぐ準備も生まれにくい。
「その善意が善行を産むのか」という自問が不可欠だと考えられるけれど、慎重になり過ぎて「善意」を押し殺すことも惜しむべきであるし、時として時宜を失い「手遅れ」という事態を産むかも知れない。
この判断の手助けとなるべき「権威」とか「信仰」そのものがデマだったりするから、時として悲劇を招くのだろう。

感情的な「幸福」は脳内物質が産み出す短時間しか持続しない感覚に過ぎず、客観的な「幸福」は比較による判断に過ぎないので、「幸福」を探すことは無意味だと悟ったのに似て、「善意」は動機でしかないので事前段階では常に正義であり、「善行」は結果が時の価値観にどう受け取られるのかというだけの問題なのだと悟った。