宗教は善意の詐欺か

彼は詐欺師であるが、富豪しか狙わない。彼の詐欺は必ず成功し、巨万の富を富豪から奪うが、富豪が富豪であり続けることを損なうほどの富は奪わない。しかも富を奪われた富豪も、その代わりとして経済的な力では手に入らないものを得るので、その詐欺師を恨むこともなく、訴えることもない。
こんな詐欺師は存在しないけれど、ドラマや小説に登場したら好感度抜群だろうな。詐欺は法律的にも倫理的にも不正な行為なのに、虚構とは謂え設定次第では「愛すべき人」にもなり得る。
こんなことを考えたのは、Facebookで、キリスト教福音派の人と進化論について論争を試み不毛な結果に憤っているある人の記事を読んで、宗教とは好感度の高い詐欺師のようだという乱暴な感慨を得たからだ。以下に暇つぶしの思索を書いてみるが、たぶん結論は得られないと予想する。
被害者の会など告発者を抱えた新興宗教は埒外に措いて、世界に何億人もの信者を抱える宗教を考えてみた。キリスト教圏に目を向ければ、スコラ学から現代に至っても抜け出せない信者を除いて、現代教育を受けた多くの信者は科学が真理追及に向かって発達していることを信じていると思う。その姿勢は信仰を形而上学として思考の外に棚上げした、かのカント以来の伝統的なスタイルだろう。さらに、そこから生まれた民主主義の思想に伝統的な「教会からの解放」が加味されて自由主義が生まれたと仮定するならば、教会の支配による古い秩序と公共性というものとの疑似性から、公共性からの個人の解放というリバタリアニズムという思想の出現によってこの「詐欺」は完成し、行きつく先は自己責任と訴訟の社会だろう。
イスラム圏の中でも中東は本質的に科学に向いている文化的素地を持っていそうだけど、原理主義によって退行してしまう点に、この宗教が持つ致命的な欠陥が現れる。それでも信者を安寧にする効果が大きい点で、この「詐欺」も成功しているとみるべきか。
神無き宗教であるファシズムだけは、神の不在によって「詐欺」に失敗するから、ただの「犯罪行為」になるのだ。