2020年頭雑感

あらゆる宗教的思想が基本的に物質世界よりも精神世界を上位に置くのは、物質的な豊かさの分配が困難であるという問題解決のために、宗教が必要とされ利用されてきたからではないか、と疑っている。
仏教では物質的な欲望はすべからく煩悩であり、バイブルには「人は神と富との両方に仕えることはできない」と書いてある。
イスラム教のことは詳しく知らないけれど、たぶんキリスト教と同じ価値観だろう。
儒教の価値観には労働を卑しむ傾向があるけれど、その中でも物質的生産力を持たず利潤を追求する商業は最も蔑まれ、江戸時代の公式な身分制度ではないにしろ、職業序列では士農工商と最下位に置かれている。
でも資本主義のもとでは、ビジネスはすべからく商業なのだ。
民主主義は民衆が政治に参加する方法としては最悪かも知れないが他に方法が見つからない、資本主義の富の分配は不公平だけど社会主義は貧しさを公平に分配する、と言ったのはチャーチルだったかな。
ともあれ世界は今、資本主義&民主主義の時代だ。
ある国でたった数人の超富豪が産まれれば、その国民の所有財産総額は向上しその国の経済は発展していることになるけれど、それって正当な評価とは思えない。
暴力的に貧富を逆転させても何も解決しないことを人類は学んだし、最後の審判で貧富が逆転するフィクションを盲信し胡麻化されていた頃よりも、人類は賢くなっている。
ノーベル経済学賞をもらった米国の偉い先生が、バブル崩壊で経済的ダメージが大きかった日本に対して結果論的批判を浴びせ、日本のマスコミもこぞって日本政府の経済政策を罵ったけれど、その後、この偉い先生はリーマンショックを予見出来なかった。
経済学ってのは結果論しか言えないものなのだろうか。
たぶん経済学が永久に正解の出せない学問である理由は、景気というものを動かしているのが人間の欲望や期待、不安という精神世界であり、観測検証する対象が生産物や通貨という物質世界だからだろう。
だとすると、経済学は心療医学みたいだな。
学術理論は定義することからスタートするわけだけれど、労働とか通貨とかの定義が時代の変遷ですぐに陳腐化してしまうから、経済学は絶えず刷新されなければならないけれど、定義が崩れては理論体系の発展が出来ないので、確立された学術権威を保持しようとする学者の意志がそれを妨げる。
これは古文献に過ぎない聖典に拘束され変化を拒む宗教に似て、人類幸福を考究する姿勢を期待できないジレンマだ。