パリのオルセー美術館にあるギュスターヴ・クールベ作「世界の起源」は、写実主義の大家が女性器を描き長い間賛否が問われてきた問題作だけれど、その前で女性芸術家が自らの陰部を露わにするパフォーマンスを見せたのは、もう4年以上前の出来事である。
彼女の意図は「リアリズムの絵画において女性が開脚していたとしても、陰部は閉じたままで穴は見えません。」 という、写実主義絵画が持つ自己規制に対する抗議だったように思うけれど、僕はここに写実的絵画の存在意義があるのだと思う。
昔から存在する写実主義絵画に対するエロチシズムの要求は、時として宗教権力の弾圧や政治権力からの干渉によってアングラと化してきたけれど、表現の自由の暴走を許容する現代においては、AV作品などによってある意味達成されている。
本来、エロスとグロテスクの境界線は主観的・情緒的な問題であり、時の権力の主観によって歪められるべきものではない。
あくまでも制作者の良心や道徳観を映すものとして創作の範疇であり、それも含めて作品は成立していると思う。
レオナルド・ダ・ビンチの啓蒙によって解剖学的なリアリズムを信奉する傾向が写実主義絵画に存在するような気がするけれど、医学書の図解ではないのだから、画家の美意識が写実性に反する表現を選択することで作品に作者の「意志」が反映し、作品を成立させている。
この点において絵画は、取捨選択の意志が一義的に存在せず、ただ光学的に対象物を写し取る写真と差別化される。
写真もまた、報道や資料としての情報である場合は光学的事実を修正すべきではないが、作品として主張する場合においては、作者の美意識をもって修正加工されるべきものだと思う。
その意味で、モザイクや黒塗りで隠す写真は、アートとして醜悪なもの以外の何物でも無い。
以上の思索における結論として、写真と絵画の境界線が無くなりつつあるデジタルアートにおいて、光学的事実をそのまま描くような写実性の価値は、偶発的事実の記録としての価値のみであろうから、修正加工が加えられていない写真にのみ存在すると断定する。

「デッサンが狂っている」とは、かつて編集者が漫画家の作画を批難する常套句だった。
美術的専門教育を経ていない多くの漫画作家はその劣等感もあって、その指摘に抗う勇気を持てなかった。
しかし、編集者もまた美術実技の習練を積んでいるわけでもなく、それは出版権力を背景にした弱者への無意味な恫喝をもっともらしく表現した詭弁に過ぎない。
人物作画は解剖学的セオリーの呪縛から解放されるべきであり、パリ画壇の巨匠たちはそれを実践してみせたのだから、市井の個人的趣味絵師である我々も、その勇気を持ちたいものだ。