日本の朝鮮統治時代については、反日か日本擁護の両極端の論ばかりで判断ができない。
天皇崇拝については賛同しきれないが、韓国の反日論には李承晩以来の反日プロパガンダと教育による洗脳が著しく、その根拠は信頼の出来ないものに思える。
朝鮮統治時代には朝鮮民族も日本国民として軍隊に属して共に戦ったが、必ずしも朝鮮人だからという理由で強制したものではなく、日本国民と同じように軍国の臣民として辛苦を舐めた。(朝鮮人に対しての差別は間違いなく存在していたので公平とは言えないけれど、軍隊や企業の中で上級職に出世した人もいるので、公的には日本国民として扱っていたようだ)
この数十年の親日派狩りに遭って今では壊滅状態ではあるが、親日朝鮮人の言説にも触れていみたいと探してみたら、朴鉄柱という人物の存在を知った。
日本の民族派の主張を鵜呑みにするものではないけれど、日本の知識層には反日勢力の肩を持つほうが優勢のように思えるので、このサイトに掲載されていた「朴鉄柱君悲痛の生涯」を参考文献として以下に掲載し個人的な備忘録とする。
天皇崇拝主義/民族主義の人(右翼)が書いたものだから多分に偏向しているが、日本国内の知識人にも反日言説の多い昨今であるので、この文章から幾許かの真実を感得できるかも知れない。
朴鉄柱君悲痛の生涯
─ その心理の根底にあるもの ─
葦津 珍彦
昭和四十一年春、日韓国交が始まって直後のころ、私は畏友、中村武彦氏に誘われてソウルに行き、「日本文化研究所」で、朴鉄柱君と会った。
韓国は、有名な李承晩政権以来の徹底的な反日教育で「日本人ほど悪い奴はない」との国民意識に固まっていた。
その極端さは私は「韓国国際情報」などで、かなりによく文書では見ていた。しかし文書で見るやうな偏見やデマを、たヾ政治的に利用しているのか、本気で信じているのか確かめてみたい気があった。そして現地に行ってみたら、その無知偏見が、本気で燃えているのを知った。
その中で、真の日本民族の理想を知り、社会圧力の下に「日本文化研究所」を死守している朴鉄柱君を相知って、戦後育ちの学生諸君と討論して、その一端を「韓国の学生と語る」との一文に書いた。その文中で、私が韓国大学生の反日史論を片はし無遠慮に反論し、日本人の立場を弁明した文を書いた。それは「アジアに架ける橋」(白井為雄編、原書房発行)に残っている。
その文で、私は「朴鉄柱君は、鶏林八道第一の知日家である」と書いた。朴君は自分の門下生のみでなく、各大学から日本語のよく分る学生、十七、八名を集めて来て、私と十時間以上も討論させ、自分は黙って聞いて表で論評しないで、黙っていた。そして後で、私の論に対する学生の多彩な見解を集めては、その反応を正直に私に報告してくれた。
その時の私の話の約五分の一程度は、前記の小文に書いた。私は、その時の印象が今も強く残るし、その後に知った韓国人にも同じ論旨の「知日のすすめ」を論じたので、その論旨の要点を、あまり重複をさけて書いてみたい。
「君等は、豊太閤の侵入史から、総督政治の末期までの日本人史を語るが、『四、五百年間、日本人はわるい奴ばかりで好ましい奴は史上に一人もなかった』という史論だ。それほどわるい奴のみで固まった日本人に、四十年や五十年陳謝させれば、それでいい日本人ができると思うのか。私は今少し古い話からしよう。
私の故郷は博多に近い宮崎だ。ここに元の軍が高麗の大軍をひきいて来て、惨劇極まる侵略をした。やっと追ひ帰したが、その兵の大多数は朝鮮人だった。日本人に報復心が強くて、今度は韓半島を荒しまくるのだ。
君等もよく知る高麗最後の博学の政治家、鄭夢周が死を決して博多に外交談判に来た。今川貞世という日本の高官と理義をつくして話すと、今川の理解は大変によいし、また博多市民一般の人情は、非常に温いし、仮調印して、今後の対策を約して、すこぶる礼を厚くして見おくられて帰国した。この時に、『お互いによく交れば人情の頼むべきものあるを知る、お互いに猜疑心を棄てるべきではないか』との美しい詩を残している。この夢周が帰国して間もなく暗殺されて、高麗が亡びて李朝政権へと急転し、やがて豊臣の戦役となる。この夢周への敬愛の情は、博多では私などの時代の小供にも伝へられたが、諸君は知るまい(大学生は、話し合っていたが、夢周を碩学の名政治家としては、みな知っていたが、博多での外交は一人も全く知らなかった)。
諸君が、秀吉を憎む論については、私は、今晩は、あれこれ論じないで認めるとする。問題は、この戟役で多くの文化人技術者が連れ去られて、李朝が苦しんだのは確かだ。徳川が和平へ急転して、すべてかれらを帰還させることを約したが、帰還者が集まらない。日本に来てみると技術者や文化人は温く保護され、特権者専制暗黒の故国に帰るのを欲しない。帰国者を集めるための当時の高札が今もいくらも残っている。
今度の大戦で日本人が敗北して、ひどく虐待された時に、韓国人は戦勝国民にはされなかったが、第三国人として七年間日本人よりも特権的上位におかれて、かなり勝手なことができるので、大多数の者が帰らなかった。日本人に嫌がられた連中は多かったが、十年後の今では、それを怨むでいる者は、ほとんどいない。これは民衆心理の問題だが、著名な政治家についても少しく語ろう。
有名で日韓共通して評価の高いのに、金玉均がある。反清知日路線の近代化のラジカリストだった。日本政府は、当時の韓王朝や清国への外交を考へて、革命的金を冷淡にしたのは確かだが、福沢、頭山以下の在野国民の支援は強力だった。英雄的天才型の金は、日本の政権が冷淡では、事は成らぬ、『虎穴に入って虎児をとる』とて、在野同志一同の切なる勧告を退けて上海に誘致されて殺された。
金玉均は誇り高く、人に依頼するのを好まぬ男だったが、頭山の情とは別れがたく「神戸までぜひ送ってください」と別れを惜しんだ。頭山が神戸で船が水平線に消えるまで見おくった切切たる友情。福沢が船中の金玉均にまで危険をさける電報をした話。金玉均が殺されると東京で大国民集会ほどの大追悼が行はれて、日清戦争の決断を早めたこと。日本では有名な話だが、諸君の歴史ではただ「日本の冷淡頼むに足らずとして上海に行く」とのみ書いたものが多い。
日清戦のころの宰相、金弘集は、真の憂国の名宰相だった。王は、かれを日清戦対策として宰相に任じておき、三国干渉でロシヤの方が日本より強いと思うと『ロシヤ大使館』に逃亡し、ロシヤの欲する利権を片はし渡し、暴徒を煽動して宰相を殺させた。日本兵が保護援助に行くと、金は「余は外国兵の守りにて生命を保つのを欲せず、余はむしろ独立韓国の宰相としての死を選ぶ」として、日本兵をすべて撤去させて後に、自らあえて、暴殺の大衆のなかに入って生命を棄てた。
李王朝史を見ると、知日派あり親ロシヤ派あり、知清派があるが、それは当時の弱小国としてはやむをえなかった事情もあるが、知日派の中には『日本人を結ぶに足る友』として信じて信義を以て進退した真の韓国憂国者がいくらもある。だが親露、親清の人には、真の韓国憂国者あるを知らない。ただ一時の権勢を見て進退した節義なき徒が多い。
この三国を主とする外交戦で、日本の勝利が確実となって、急転した李完用などは実は親露派だったのだ。大勢決してしまって、雪崩のやうに旧守派や変節派が日本総督政治の支柱となったのだ。その数は、すこぶる多いのだ。その事実を無視して、節義なく右往し左往した韓国人を責めないで、ただ『日本人がわるいから、韓国の独立が保てなかった』などと思っている間は、韓国には決して真の独立はできないと知るべきだ。
私は、日本人の中に、よい点があると信じてくれる知日家があれば、相和する。わるい奴ばかりが、日本人だと思っているのなら、なにも和する必要もなし、今これから改めて国交する必要もない。」と。
私は日本敗戦前は、朝鮮独立論者だった。日本は満洲建国以来、東洋の解放を旗印としたが国際的に日本不信の国が多い。満洲国の独立を主張しても信用されない。それは朝鮮を独立させないからだ。日本が朝鮮の独立政策を進めれば、信を得るが、それなくしては信は得られないと。わずか少数青年の論だったが、当時の有力者の中にも「君の独立への道は、順序と時を要するが、当然だとの思想」は存外に多かった。戦時中に私は、朝鮮独立の有名なリーダー呂運亨氏を知り、この先生には教へられる所多く、沈才沈勇の革命的政治家として畏敬し、多少の手伝いをしたこともあった。呂氏は李承晩、金九とともに独立臨時政府の要人で、主として国際外政で活動した。中国々民党の孫文に信頼され、その国共合作時代にソ連の要人とも親しい人間関係ができたし、抗日中国の要人にも多くの親友があった。しかしかれは大東亜戦争の時代になって、心中ひそかに政治路線の大転向について考へた。「存亡の危機に立つ日本に必要な和平工作をして助けて、日本をして朝鮮独立を承認させる」との志を立てた。日本権力の第一級者や、軍の将軍とも交渉したが、かれの活動には、どうしても総督小磯(国昭)との会談が必要だった。
小磯は、長時間にわたって、その世界的大経世のプランに心ひかれて、その活動に精神的諒解を与えた。しかし当時の官制は変なもので、総督の警察権と朝鮮軍司令官の憲兵は対等権を有しており、裁判前の検察権のみが総督にあった。憲兵が呂氏を捕縛して、活動ができなくなった。しかし検察へ回ると、小磯は直ちに釈放し、直後に東條政権が倒れて上京した。そのころ私は東京ソウル間を往来した。大川周明博士の門下、金内良輔氏も釈放につとめたと聞いた。
小磯は首相になっても現役の陸軍への威信もなくして無能。釈放直後の呂さんは、すでに日本敗北を確信していた。
朝鮮ホテルの一室で、長時間にわたって懇談された。かれの話は「日本敗戦後の対日弾圧は、徹底してきびしく、日本の諸君の想像以上の存亡の危機に立つ。朝鮮は形は独立するが、建国の人材に乏しく極東の弱小国にすぎない。この極東の情況は明白だし、この時こそ日韓両民族が相扶け相和すべきの天機。私は、そのため全力をつくす。」と力説し、自分の志を日本の支援者に伝へてはしいと云った。確かに敗戦は、せまっていたが、敗戦予想を前提にしての論は、たヾの話でも刑事犯とされた時代だ。それで先生は、大きな紙に掛物風に「萬里相助、呂運享」と大書し、私あての年月を誌して、これを証拠に話を詳しく伝言してくれと依頼された。
私が呂さんと相知ったのは、神兵隊の総司令、前田虎雄先生からの「全力をつくしてくれ」との紹介だった。その後の呂さんとの話で、かれの日本人との交渉関係は、日本の政界重鎮、文武の高官、思想家学者等の存外に多数者に及んでいるのを知ったが、それが活の必要上のたヾの駆引き交渉か、深く信頼しての間なのかは、極秘行動のこととて、あえて私は追求的な質問もしなかったし、確証できない。たヾ確信し得るのは、五・一五を援助した大川周明博士との信頼感は、かなりに古くから強かったこと、同じく維新者、前田先生との間は存外に新しいが、人間的な重厚さと信義の深さを信頼されていた。私は前田先生に詳しく報告した。
呂運享の伝は詳しいものがあるが、私は、ハングルを読めないし、詳しくは知らない。ただこの革命家の反日時代が評価され、知日家時代については、マイナス的評価があるらしい。戦時中の検挙から釈放までの時が存外に短いのを疑って、根拠のない説を書いた文も見たことがある。
果たして呂さんの予測通りに日本が敗戦。ソウルの総督府は、直ちに呂さんが指導する建国準備委員会に引渡された。(呂さんが政治犯釈放を全的に要求したのを、日本側は、全刑事犯を無候件釈放したので、南鮮でも日本人に迷惑かけたとのレポートを聞いた)。
呂さんは、朝鮮が米ソ二大覇権国に分断されるのに徹底反対して、全力投入の活動をしていたが、暗殺されて悲壮な最後をとげた。呂さんの生涯は、大部分が毅然たる反日独立の革命家である。しかし世界の大勢をみる見識が高く、かれとしては敵国たる日本人とも深く相交って、世界の大動乱に際して「日本にも信ずべき友あり」として、韓国のためアジアのために戦いぬいた。私は、呂運享先生を、今でも高く畏敬している。
私は、よけいな話に横すべりしすぎたかに見えるが、それは本文の知日家、朴鉄柱君の悲劇の特徴を語るためなのだ。
朴鉄柱君が知日家となったのは、呂さんのやうな政治的鍛練、波乱を経ての結果でなく、純粋な青年時代からの素直な道をたどったものだった。その誘導者となったのは、日本の維新者、中村武彦氏の感化による所と思うが、それは端的に云って「政治的」なものでなくて、精神的に「日本天皇の高貴にして神聖なる精神伝統」を知り、その伝統精神を信じた点にあった。かれの知日の対象は「日本帝国の祭政を統合される天皇」であった。
だが戟後の日本では、全く無理な干渉圧迫で、天皇は「象徴」としての無力の形式を残されたのみで、「現実の政治も、経済も、文化」も朴さんが憧れた伝統的日本国は、変貌し変質してしまった。「主権在民憲法」下の金権と個人エゴの満ちた「世俗主義国家日本」が目に見えるのみの時代となっていた。その情況下で「神聖にして高貴なる天子の国、日本」についてその信頼すべきことを語る朴鉄柱君の説が、現代韓国人の心をひきつけることは、これは無理な話であった。
その話を聞く日本人でもが、なにかよはどの個人的な印象の故に、日本人以上にも日本の好きな珍しい「親日家がゐる」と思うだけで、「かれこそ、真の知日の公正な人物」と信ずる者は少なかったのではないか。こヽの点に朴鉄柱君、生涯の悲劇があったと私は思っている。
朴君は、日本に来ると楽しげに私共を訪問しては、長時間にわたって懇談した。かれとしては、戦後も戦前も同じに「天皇の高貴神聖」を信じている少数派日本人の残存を確めては「わが対日観は決して誤ってない」と思って、満足したかったのだろう。私はしばしば注意した。
「日韓両民族が、一視同仁の聖天子の兄弟たるべき時代は消え去ってしまった。君は悲しいだろうが、仲のわるい隣邦の外国人にすぎなくなった。日本人の道義も失はれ、金権の外に考へない気風に汚染されている。韓国人は、自ら国を亡ぼしてしまった歴史を、ことさらに抹殺して、日本をただわる者にして、公正の歴史をゆがめて、対日請求のやくざ集団のやうな思想にとりつかれている。ここでは、はっきりと日韓は別国とわり切って、冷徹な国家対国家の国際公法の「理性」に立ち、相和すべき理があれば和するが、対決すべき理あれば同意を拒否し、対決するとの原点に戻って、初めから、出直す外にあるまい。その対等対決の中から、自らにして兄弟の情のわき出るのは切望するが、心にもない特殊、非情理な、拵え事のだらだら回想情操論は一旦打ち切った方がいい。今の條件で日本天皇と親しむ者には親しみ、敵対する者には敵対するがいい。異国人相手の交際からの出直しだ。」との意見を幾度か云った。
かれは、現実を見ては、私の論に反対はしなかったが、淋しげだった。かれの切なる日本天皇思想への深い知日の情は、たヾの理をもって裁断するには忍びがたいものがあった。かれの連綿たる悲劇の生涯を想へば、日本人の情としては申訳ない。
しかし明治以来の先人たちの積み上げて来た「日本天皇国の高貴さ」は、昭和二十年の敗戦以来、崩れ去っている。その崩れ去った「日本像」を「これが日本だ」として主張する朴君の論が、今の韓国人に共感されるのは無理なのだ。少なくも「西南の役」以前にまでたち戻って、われわれ日本人が「天皇国日本」を事実において再建する維新の事実を示さない限り、韓人社会における朴君の論は「虚像」とされ、孤立の悲劇をまぬがれない。
その最後の悲惨なりし孤独感苦悶を畏友中村君から親しく聞いて、私は暗然たるを禁じえなかった。われわれ日本人の維新への歩みが、あまりにも弱く、否、むしろ一歩一歩と後退しつヽあるという「事実」が、朴君を悲惨苦悩に追いこんでしまった。こヽに悲史の本質がある。
われわれ老骨が、維新の大業を成就しえないまでも、維新への志を明かに掲げしめし、明治先烈の活力を回復して、再び歩み直すこと、これが朴鉄柱君への真の追慕友愛への道となるのではないか。
引用元:朴鉄柱氏について