「好き」と「嫌い」/主観と客観

中曾根康弘という政治家には「政界の風見鶏」という異名もあり、ロッキード事件では側近の佐藤代議士が逮捕されたのに自身は訴追を免れ、“塀の上を歩いて内側に落ちたのが田中角栄、外側に落ちたのが中曽根”と揶揄されたように、ダーティーな印象が色濃かったので、中曽根内閣成立には大いに憤慨したものだった。
その頃は創作のネタを求めてNHKの衆議院予算委員会中継を延々と見ることが多い時期だったけれど、中曾根首相の答弁がとても真摯であり強固な信念に裏付けられていて、持っていたイメージを覆された。共産党議員の悪意を隠さない反感に満ちた質問に対しても、感情的にならず、揚げ足をとられることを恐れてはぐらかすことも無く、丁寧に政策の効果予測や立案した経緯について説明していた。ところがその夜のNHKニュースでは「野党議員の質問をはぐらかす中曾根総理」という内容に映像が編集されていて、NHKですら印象操作があることに驚いたものだ。
当時のマスコミや文化人には「反権力がインテリジェンスの証」という価値観があって、瑕疵のある権力者を巨悪に仕立て上げることが「仕事」だった。盲目的保守支持層が巨大だった時代だから、こういう印象操作も社会の健全なバランスをとるためには必要な時代だったんだと今は思うけれど、漫画家か作家になりたいと夢を見ていたこの当時に思ったことは、「人は好きなことには詳しくなるので好きである理由を雄弁に語ることはできるけれど、嫌いなものには踏み込まないから嫌いである理由は薄っぺらい」ということだった。
「好き」は客観性を持ち「嫌い」は主観で終わっている、という自分に気づいたのだ。「好き」は主観でも構わないけれど、「嫌い」こそ客観的に掘り下げてみることが創作活動を志す者のあるべき姿ではないかと、若かった僕は青臭いことを考えたのだった。
中曾根首相について調べてみると、志のためには手段を選ばない「革命家」のようなところがあって、政権与党で多数派工作をするためには資金が必要なために広く政治献金を受けていて、それが汚職疑惑を産んでいた。私生活は権力者にしては質素なほうで、田中角栄のような御殿を建てることもない。
2019年に101歳という長寿を全うしたけれど、政策面では「名を捨てて実をとる」反面、自分自身の人生は「蓄財よりも後世の評価」を重んじていた感がある。「嫌い」を掘り下げてみて「尊敬」を発見する稀有な例が、僕にとっての中曾根康弘なのであった。