アザトカシコイ

清少納言の「枕草子」の英訳タイトルが「The Pillow Book of Sei Shonagon」とは知らなかった。「Pillow Book」を和訳すれば「枕本」。江戸時代の出版業界で「枕本」と言えば、暗に「春本(エロ本)」を意味していたから、変に日本に詳しい英米人がこの英訳タイトルを見たら日本最古のエロティシズム文学と誤解し、「春はあけぼの」の先にどのような官能的描写があるのかと期待して読むかも知れない(いるわけ無いか)。
薄い和紙では筆写でも木版印刷でも片面しか使えないから、和紙を使った書籍は、巻物に装丁するか、仏典のようにつづら折りに装丁するか、二つ折りにして綴じる袋綴じにするかなんだけど、この袋綴じ製本を「双紙」と呼び、「草子」とか「草紙」と書くようになって江戸時代には大衆向け出版物を指すようになった。(昔ガリ版印刷で袋綴じ同人誌を作っていた頃の知識)
それにしても清少納言の著作は、なんで「枕」なんだろうね。
こんな説もある。
そもそも内の大臣から大量の紙を献上された中宮定子が、「こんなに頂いて、どうしましょう」「何を書いたらいいのやら」「ミカド(中宮定子の夫:一条天皇)は史記(日記のこと)を書いてらっしゃるけど、あれは男の書くものだものねぇ…」と女房の清少納言に相談したところ、「だったら《枕》しか無いっしょ」と答え、「んじゃ、貴方が書きなはれ」と紙を下げ渡されたところから始まる。平安時代の貴族や僧侶は日記をつけていて、個人のバイアスはあれど客観的な「記録」を残すという姿勢であり、公的な記録の価値も有していて、これは男社会の習慣でもあった。そんな時代に女性が日記を書くという発想はあり得ない。そこで《枕》という提案となった。《枕》とは、男性の日記に対して「主観的」「私的」というニュアンスが込められていて、要するに「個人的な随想でも書き散らしてみてはいかが」というのが清少納言の回答だったのだ。
書くように言われ大量の紙をいただいて、徒然に書き散らしていた清少納言であったけれど、自分でもよく書けてる自負があったんだろうね。発表の場が無いから、わざと人の目に触れるように散らかしておいて、「いやん、読まないで」とか言いつつ読ませてしまう。そしてそれが、宮中で評判になっていく。
今は「アザトカワイイ」という形容が流行っているけれど、この形容を真似ると「清少納言はアザトカシコイ人だ」と紫式部日記には不快感を込めて書かれている。
そう、紫式部は仮名で日記を残している。
紀貫之が半ばジョークのように、女性になったつもりで仮名で書いた「土佐日記」があり、その後女性が仮名で書いた「蜻蛉日記」とか「和泉式部日記」、「更科日記」が産まれているので、もしも清少納言が「日記は男が漢文で書くもの」という価値観に囚われていたとしたら、それはそれで興味深い仮説ではある。