信じない者は救われる

数多くの超常現象を体験しているユング本人が、「超常現象の体験は超常現象の証明にはならない」と言っているように、経験に依存する認識は万人が共有できるものではないので、それをコモンセンスとすることは非合理で危険な指向だと思う。
僕も幾度かの不思議な体験さえ無ければ、コッテコテの唯物論者であっただろう。

最後は自己破産した僕の父は、サラリーマンから起業した小さな実業家だったけれど、ビジネスを有利に運ぶために易学や方位学などを研究し、やがて霊能者や新興宗教とも繋がりが出来ていった。そのため、僕は子供の頃からいくつかの宗教団体の練成会や教化合宿に参加させられたり、また霊能者との面会経験や心霊施術にも立ち会う経験を持った。
なかば強制されたこの経験は、科学に憧れる子どもであった僕の中に反発を生みつつも、やがて自らが不思議な体験を何度かしたために、その正体を得たいと積極的に接するようになった。しかし父が頼った宗教家や霊能者といった神霊ビジネスからは、納得できる解答を得られなかった。

「この世ならざる力」に頼って興亡した父の人生をすぐ近くで見てきて、経験し感じたことと考察結果を以下に記す。

  • 宇宙からミクロの世界までの運行を司る「摂理」とでも呼ぶべき存在はあるけれど、それは人格など持たず人間が考えるような正邪の価値観も持っていない。人間が正しくその片鱗を掴んでいるとすれば数学によって表現できる部分であり、言葉にすれば虚飾にまみれ「嘘」が多くなる。それは祈らずとも常に存在し、祈りの有無には関係なく公平である。
  • 宗教家の多くは霊感に乏しく、歴代が築いた宗教マニュアルを学習したうえで自己流の解釈を加えた程度であり、信じる人の規模を保っているのは、概ね個人としての社交技術と集団運営能力に負うところが大きい。
  • 心霊施術者が物理的に証拠を示す場合は、ほぼ全てトリックである。
  • 霊能者の中には実際に霊感を持っていると信じられる人が存在するが、霊能者自身が霊に騙される場合が少なくないように思える。

霊能者が交霊できるのはすべて低級霊であり、中には高級霊からのメッセージを媒介する善意の霊も存在するけれど、それは希少であり、なかなか遭遇できるものではない。歴史上の人物や、既に故人となっている肉親になりすまして人を騙す霊が少なくないし、それを見破れない霊能者はきわめて多い。
よって心霊に頼る行為は、善意から生じても結果的に社会を惑わす危険な傾向を生む。そのため高級な霊団によって守られている人間社会は、高級霊団によって心霊を信じない価値観が優勢となり、結果として霊障から人間社会を守っている。

人間の認識や個性(精神的生命)は肉体(物質的生命)を失っても永遠に存在し、再び肉体を得て「人間」を繰り返す存在だと個人的には信じているけれど、それは先験的に情報共有できるものではないし、信じなくても精神的生命の連続に悪い影響を及ぼすものでもない。
例えて言うならば、我々の肉体を構成するのは細胞であり、もっと細かく言えば素粒子であるけれど、細胞や素粒子について何も知らないことが、肉体に悪影響を及ぼすわけではないことと同じである。
生物学の知識が無くても、自らの肉体を損なわない注意を保てば物質的生命に対する責任は十分であり、神や心霊についての知識や信条を持たなくても、自らの個性と精神を労り育めば、精神的生命に対する責任は十分である。
むしろ他の誰かが作った信仰教義や、低級霊相手に実演して見せる心霊ビジネスに自らの精神的生命を託すほうがよほど危険、であるように僕は思う。

僕の体験に基づく以上のような思索について、僕の幼少からの体験が心理的瑕疵を形成し、僕の超常体験は脳科学的に説明し得る唯物的脳内現象であるという指摘には、その合理性を理解し反論できる根拠も無いけれど、それでも僕は精神的生命の存在と連続性を信じ、そして今の肉体的生命を得た使命を考える。
繰り返し生じる苦難や不幸が招く「切なく暗い気持ち」や「絶望」から立ち直り続け、他者に親切にすることが快いと感じる良心を保つことが、肉体的生命でいる間の修行であり、精神的生命の品質を向上させるのだ。