「自由」について考える

「Liberty means responsibility. That is why most men dread it.(自由とは責任を意味する。それゆえに、たいていの人間は自由を恐れる。)」とはアイルランド人では2人目のノーベル文学賞受賞者となった、かのジョージ・バーナード・ショーの言葉である。
この言葉を引用して「自由には責任が伴う」と説く人が多く、そこから「義務を果たさぬ者に自由は与えられない」と飛躍する場合もある。
そもそも「自由」とは誰かに与えられるものなのだろうか。
現代の概念として、人は生まれながらにして自由である、だろう。
義務や責任の報酬として「自由」が与えられるのではない。
誰もが最初から「自由」を持っていて、「自由」に伴う「責任」とは、他人の「自由」を侵さないという制約を守る社会契約を指すのである。
けっして「身勝手な振る舞いの結果は自分自身で解決する」というような意味で、「自由」と「責任」が存在するわけではない。
「自由」という言葉は「Liberty」の和訳として森山栄之助が案出し、福沢諭吉が世に広めたもの(慶応は福沢オリジナルを主張)だけれど、もともと「自由」とは「わがまま」「勝手気まま」という悪い意味の言葉として、古代中国から使われていた。(後漢書に記載されていて、続日本紀もこれに倣っているそうである)
文明開化以降に「Liberty」や「Freedom」の和訳となってからも、「自由」という言葉は現代でも、古来の「わがまま」「身勝手」というニュアンスを纏いつづけている。
だから日本では、「自由(=身勝手)」と「自己責任」がセットとして語られるのだと思うけれど、人権問題としての「自由」は「わがまま」でも「身勝手」でもない、生まれながらにして人間が持つ「権利」であって、「義務」や「責任」の代償として与えられるものではない。
他人の「自由」を侵さない「責任」だけが、コモンセンスなのだ。
ちなみに、誹謗中傷が「表現の自由」から外されるのは、誹謗中傷する者が誹謗中傷される者の「誹謗中傷されない自由」を侵害しているからである。
「自由」と「自由」の衝突が、しばしば「自由」の存続を危うくするので、哲学と法理でこれを守っていかなくてはいけない。
「無価値な人間の処分」をしばしば提唱したり、ファシズムや優生学、人種差別にも好意的だった厭世主義者バーナード・ショーにとって、彼の目には愚かしく映る大衆の「自由」を妨げないように振る舞うことなどは、耐え難く不自由であり、そんな不自由な「自由」を忌み嫌って吐いた言葉だったのではなかろうか。